Blue Flower


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 彼の部屋は狭く、17インチCRTのモニタを置く場所にも苦労する。おまけに身の程も考えずにタワー型パソコンを持っており、部屋は溢れ返る漫画、ビジネス書、雑誌その他でごった返している。
 そういう状態でも、よせばいいのに彼は音にこだわり、パソコン付属のスピーカーを捨ててONKYOのものに買い換えていた。
 モニタを挟んで置いてあるその左側のスピーカーの上に、可愛らしい仔犬のぬいぐるみがあった。
 大きさは30センチ位で、手足は木のボタンで留められていて自由に動く。首に紺と薄赤茶色のチェックのリボンが蝶結びに掛けられ、二つの小さな黒いプラスチック製のボタンは仔犬の瞳。茶色の糸で、まるでしかめつらをしているかのように不器用に刺繍された鼻と口は、このぬいぐるみが手作りであることを物語っていた。
 一度も洗っていないのか、もうすっかりくすんでしまっていたが、生地には青い花が三輪ずつ一組になって、無数に散りばめられていた。
 彼は今、何やらパソコンに向かってキーボードを叩いている。ふう、と一息ついて、彼の目は仔犬のぬいぐるみにふと流れていった。
 決して表情を変えることのないぬいぐるみ。


 いつしか彼は、そのぬいぐるみの瞳にではなく、生地に無秩序に散らばる三輪の青い花に吸い込まれていった。


 実を切るような寒さだが、雪は全く降る様子はなく、星がただ冴え冴えと瞬く。関東の冬はいつもこうだった。
 「さあ、行こう」
 彼は小さい進学塾の駐輪場から自転車を押してゆっくりと出てきた。成績は極めて良好で、東京の私立高校を受けるだろうことは周囲も当然に認めていた。
 彼の言葉に少女ははにかみながら頷いた。肩上できちんと切りそろえられた髪は、今日は彼女の茶色のコートで止まってしまって余り動かない。それとも、その少女の動作が余りにも微かだったからだろうか。
 紺色のコートを着た彼は、今でもそれが癖になっているのだが、どんなに寒くても前のボタンを締めようとはしない。
 「めちゃくちゃ疲れたよー。授業延長はやめて欲しいよねぇ」
 一緒にいる時、最初に口を開くのはいつも彼だ。そして少女はそれを待っていたかのようにまた小さく頷く。でも、まだ喋らない。もう一押しが必要だ。
 「ねえ、分かった? さっきの英語の文法」
 「あまり・・・ わかんなかった」
 大通りに出ているので、ともすれば少女の声は車の音にかき消されてしまう。その小さな声を、彼は決して聞き逃したくなかった。
 はかなく、綺麗な、声だった。
 「でしょ? あれはやっぱ先生がおかしいよ。だってあれ確か開成高校で出たやつだったよねぇ。解けるはずないよ」
 「えー、ほんと? ユウくんの、けっこう埋まってたわよ」
 「こら、何で見てるんだよ?」
 彼は少女をはたく真似をする。きゃあ、と首をすくめて目をつぶる少女の髪を彼は触った。彼は少女の細いまっすぐな髪が好きで、そのためだったのだろうか、彼は決して手袋を着けなかった。
 彼は、少女の顔を覗き込むようにしてその瞳を見詰める。少女の背丈が彼よりやや低いこともあるが、上目遣いになるまで覗き込むのは完全に彼の癖だった。急に近づいた彼の顔に、少女は少しびっくりして身を引きかけ、そして、小さい花の蕾が春を迎え、綻びに備えて身を震わせるように、微かに、優しく微笑んだ。


 『好きです』
 中学三年の春のある放課後、舞い込んだ一通の手紙。必要なことだけ、ただ一言の。
 彼は、その手紙が誰からのものか、名前を見る前から分かっていた。小さい、少しぎこちない文字。
 その少女は、彼が中学二年にその中学に転校してきた時から目に留まっていた。教室の後ろの方で、俯き加減に彼の自己紹介を聞いていた姿が妙に印象に残った。
 そう、その少女はいつも俯いていた。ニ、三人の仲良しの女友達と話す時も、先生に当てられて英語の教科書を音読する時も、体育の授業で膝を抱えて見学している時も。だから、肩上できちんと切りそろえられた、ほんのわずかに茶色がかった髪は、彼の横からの視線をいつも遮っていた。
 思えば、一目惚れだったのだろうか。転入したその日から彼は少女に真正面から話し掛けていた。転入生は後ろの席に座らせられることになっていて、ちょうど少女と近かったのも運が良かった。正面から見ると、少女の顔にはほんの少しそばかすが浮いている。睫はそんなに長くなかったが、左の目元から5ミリ目尻に行ったところに、小さなほくろがあった。そして何より、笑った顔が綺麗だった。


 手紙を見て、一つ彼が思い出したことがある。
 彼が転入してきたその年の、三学期の終業式の日。
 式も終わった放課後、その少女の親友が、呼び出された彼のところへやってきて、一通の手紙を置いた。複雑に折られたカラーノートに書かれたものだった。
 『心を込めて作ったプレゼントです。受け取ってください』
 目の前に、大きな箱が差し出された。
 「紀が一生懸命作ったやつよ。どうぞ」
 彼は突然のことに慌てた。そして、何事もスマートにこなしたいと思っていた彼は、慌てた自分に腹を立てた。
 箱を持っている女の子が笑っている。彼の目には、それが嬉しさ故の笑みであるとは映らなかった。まだその時15年しか生きていない彼の不安定なプライドは、彼女が意地悪く笑っていると解釈した。
 中途半端な変形ズボンの学生服。それが、彼の精一杯だった。
 「自分で持ってこい、って伝えとけよ。こんなことに恥ずかしがっているようじゃお話にならないぜ」


 表向きは、彼はその少女の欠点を指摘していたのだろうし、その少女もそう思ったのかもしれない。
 それが違っていたことに、彼は何時気付いたのだろうか。


 それから春休みに入ってしばらくして、少女から手紙が来た。
 開ける彼の手は震えてはいなかったか。



 『終業式の日は、迷惑掛けてごめんね・・・
  私っていつも迷惑ばっかりかけていやな女でしょ・・・
  私が近くにいたらつかれるよね。
  でも、もうこれ以上、迷惑かけるようなことしないから・・・
  でもね、女の子って、男の子にプレゼントわたしたりする時って心細いものなの。
  この女心は理解してもらいたいなっ・・・
  私も、その日そんな気持ちで朝から胸が一杯だった。
  だから友達に頼んじゃった・・・
  でも、男の子ってそういうのイヤなんでしょ?
  私、男の子とつきあったことないし、はっきりいって、気持ちってよくわからない。
  でも、これから男の子の気持ちを理解できるような女の子になるから・・・
  そしたらもう1度チャンスをください・・・
  その時はきっと、自分一人でプレゼントがわたせる女の子になっていると思う・・・
  だからそれまで待っててね!
  そして、いつかきっと好みの女の子になれることを夢見ています。
  こんな私だけど、私はずっと片思いし続けます。
  だから、いつかふりむいてね!
  私は、そんな日がくるのを信じている・・・』



 少女がいつも使っているピンク色のシャーペンに、祈るような気持ちを込めて書いたに違いなかった。
 彼は唇を噛んだ。自分は何と情けない人間なのだという思いしか浮かんでこなかった。


 それから少女は、中三の春から彼の通っている塾に入ってきた。訳を訊くと、いつものように俯き加減に、だって成績のいいあなたが入っているから、と囁いた。
 学期初めの席替えで、親友に頼んで少女が隣の席に来たことに彼は気付いた。彼が少女を見ると、返ってきたのはあの綺麗な微笑みだった。


 誰もいない教室。
 手紙を手に佇む彼の耳に、ドアの開く音が聞こえた。
 振り向くと、そこから押し出されるようにして少女が入ってきた。きっと、ドアの向こうには少女の友達がいるに違いなかった。
 少女は、一つの大きな箱を持っていた。
 「ど、どうしたの?」
 彼の声はうわずってはいなかっただろうか。ただ、そうであっても、彼はきっと気付かなかったはずだ。彼は目の前の少女の顔に見入ることしか出来なかったから。
 もはや俯いてはいない少女の、少し茶色がかっている髪を。


 少女の仕草は、付き合い始めてからも変わらなかった。俯くのも、そのときに髪をかきあげる手も。それはいつも左手だった。
 だが彼の脳裏には、あの時の少女の俯いていない顔が焼きついて離れない。彼をまっすぐ見返した瞳。勇気に溢れた、ほんの少し厚めの唇。こわばった微笑みの後、少女は箱を差し出したのだった。
 『好き』が一杯に詰まった箱を。


 少女をそうさせたのは、彼のあの情けない態度だということを彼は知っていた。そしてそれを思う度に、彼はどうしようもなく胸に異物感を感じていた。独りでいる時、一緒にいる時、折に降れその出来事は霧のように彼を包み、彼はその度に、心配そうに彼を瞳を見る少女に向かって微笑まなければならなかった。
 だからであろうか、とは言えない。彼が少女に一度も『好き』と言わなかった理由を。

 知識だけは大人びた彼は、微笑みながらスマートに事を行うことが大人の証である、と信じて疑わなかった。それは一種の信仰に近く、運の良いことに、もしくは悪いことに、彼は勉学という分野でそれを可能にするだけの知識欲と暗記力を授かっていた。それ故彼が、こと恋愛に関しても、スマートに進めていくことがよいことだと思ったとしても当然のことであったのかもしれない。胸の鼓動を理性で制御できる、と信じていたのかもしれない。
 彼は、『好き』という言葉を自分から言う、それを恥ずべきことだと思っていた。
 それどころか、本の影響を受けて、自由奔放に振舞うことこそ大人だ、という考えに染まっていた。彼はその少女の目の前で他の女と親しげに話したり、少女と付き合っているのか、と質されて、さぁね、と敢えて曖昧な笑みで流したり、それでも飽き足らず、少女の所属していた合唱部の後輩の女の子と一緒に帰ったりもしていた。


 自転車を推す彼の手が止まった。全開の紺色のコートに風が吹き込んできた。
 その微笑みは、決して夜空に輝く一等星に喩えられはしなかった。こんなに優しい微笑みは、そのような激しい光を放つことはない。それは星に喩えるならば、三等星のものだった。今夜空に光る冬の一等星のような鮮烈さはないし、また六等星のように見えるのか見えないのか分からないというものでもない。知らぬ人が一瞥しても見逃してしまうが、彼だけ、彼のみが見ると、それは途端に自らの存在を知らしめて照らし出す、そんな少女の微笑であった。
 こんなに寒いのに、身体がかっと熱くなった。それは、今まで計算された行動を取り続けてきた彼が初めて味わう感情だった。
 こんなずるい、くだらないことをしている自分に、信じられないほど綺麗な微笑みを投げかけてくれる。卑怯な自分を、少女の微笑みは救ってくれる。


 彼は、自分の胸の内で何かが砂のように崩れ消え去っていったことを知覚した。
 このひとには、もう背伸びしなくていいんだ・・・


 一体どのくらいの逡巡だったか。
 彼の口が開きかけたその瞬間、少女はふと気付いて腕時計を見る。そう言えば、今日は授業が延びている。
 「・・・もうこんな時間! お母さんに怒られちゃう。今日はここまででいいよ。わたし、バスで帰るから!」
 大通りの向こうから、頃合い良くワンマンバスがやって来る。いつも、おやすみ、と少女が手を振る場所よりも二つ手前の角。
 「じゃあね。また明日!」
 この別れ際に言うべき言葉を一つだけ彼は思いついたが、それを口に出すにはまだ余りにも幼く、また少女の微笑みによって崩れ去ったものの残骸がまだ残っていた。


 その『明日』に、少女は学校を休んだ。次の『明日』にも、その次の『明日』にも、少女は学校どころか塾にも来なかった。
 そして四日目の朝のホームルームで、担任の先生は言った。
 少女が心臓発作で亡くなった、と。


 彼は、駅の切符売り場で本を読む。
 一息入れたその時に見上げた冬の夜空が冴える。それは、彼に何を思い出させたのか。彼の目は中学生のころよりもずっと悪くなって、もうきっと三等星は見えない。
 彼は、前を全開にしている紺色のトレンチ・コートの襟を少しかき合わせた。


 本を仕舞い、彼は通りを眺める。真正面に、花屋があった。


 「ごめーん!」
 少し息を切らして、女の子が駆けてくる。コートの上にマフラーという格好で、いかにも寒がりな女の子。
 「遅い」
 「ごめんね・・・ でもいつもはあなたが遅れるじゃない」
 言いながら彼女は彼の左横に自分の位置を決め、彼の腕を引っ張って歩き出す。
 「お腹空いた。何か食べよ?」
 すぐに食事である。こんなに澄み切った冬空の下。
 彼は薄く微笑みを洩らした。


 引っ張られて、彼はすぐに足を止める。真正面に、花屋があった。
 「どうしたの? もしかしてごはん食べてきた?」
 怪訝そうに彼を見詰める彼女の顔を覗き込むようにして、彼はまた微笑った。
 「お花、買ってあげるね」
 びっくりして目を見張る彼女に向かって、そのまま覗き込んだ姿勢で彼は囁く。
 
 あの時、ついに言えなかった、言葉。


 彼は店の中に入っていく。目当ての花はただ一つ、あの少女の、大きな箱に入っていたものを彩っていた、無数に散りばめられた『好き』。
 それは、店の隅っこにひっそりと、しかし彼にとってはまたとなく優しい綺麗な姿を見せてくれるはずだ。
 彼は、それを必ず見つける。


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