ファミリーマートで捕まえて

〜Dreaming〜




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第8回

〜Happy Birthday〜
いつも、私は、時間に遅れそうでも、滅多に走ることはないのです。いくら急いでも、電車は定刻どおりにしか走らないし、信号は急に青になってはくれないし。
でも、その時は違いました。
先週の土曜日、もう夜の11時半を過ぎています。私は、会社から思い切り走って、電車に文字通り飛び乗って、なかなか進まない電車のドアを軽く蹴って、ドアが開くのももどかしく、改札口を一気に駆け出て・・・
そこで、足を止めました。
大きく息をついて、呼吸を整え、にじんだ汗を拭いて、髪を整えて。右手の紙袋を、確認して。
そこから、ゆっくりと歩き始めました。


やがて、前方に見えてくる、ファミリーマートの明るい看板。
そこに、今日、絶対に会わなければいけないひとが、いるのです。
今日、誕生日を迎える、女の子。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。


ファミマの看板の前に、車のヘッドライトに照らされて、ちらちらと人影。
きっと、あの女の子です。長いほうきを持って、店の前を掃除しています。
でも、ほうきは、動いたかと思うと、すぐに止まって。
ほうきを持った人影が、少し、淋しそうにたたずんでいました。
私の足が、速まりました。


女の子が、こちらを向き。
早足に歩いてくる私に、気付きました。
瞬間、こんなに離れているのに、彼女が息を飲む音が聞こえるような気がしました。
こちらを確認するように、じっ、と見詰めて。
頭の上まで手をあげて、彼女が私に手を振りました。
そして、ちらり、と店の中を眺めて。
放り出されたほうきが、まるでスローモーションのように、ゆっくりと倒れていきます。
ヘッドライトのフラッシュを浴びて、女の子は、後ろで二つにまとめられた髪を元気よくなびかせて、膝丈の紺色のスカートを揺らして、私の方に駆けてきたのでした。


「あ、あの・・・ おかえりなさい!」
私の目の前まで駆けてきた彼女が、ぴょこん、とお辞儀をして、言いました。その顔は、きらきら輝く宝石のような笑顔に満たされています。
「ごめんね。ほんと遅くなっちゃって」
「え・・・ そ、そんな」
「だって、 ・・・ね?」
私の視線に、女の子が、もううつむきます。
そう、今日は、彼女の誕生日。あと30分で、間に合ったのです。
「そんな・・・ 忙しそうなのに・・・」
「ちゃんと、この日に言いたかったからね」
ますます、うつむいてしまう彼女。
そんな彼女を見ながら、私は、右手の紙袋を探りました。


「あ・・・ うわぁ、きれい・・・」
女の子が、目を丸くします。
袋から出てきたのは、紅い、でも紅過ぎない、小さなバラの花束。かさかさと乾いた音を立てているのは、それがドライ・フラワーだからです。
いつも笑顔の彼女。彼女のための、紅いバラ。
「こ、これ・・・?」
女の子が、私を見上げます。
「うん。 ・・・あ、ちょっと待ってね」
私は、その花束から一本取り出すと、それだけを、彼女に差し出しました。
「・・・え?」
不思議そうに、それを受け取る彼女。
「それは、あなたが1歳の時の誕生日の、プレゼント」
紅い小さなバラを持って、ぽかんと立ち尽くす彼女に、私はもう一本を、渡します。
「それで、これは、あなたが2歳の時の、プレゼント」
「・・・ふわぁ」
声にならないため息をこぼして、彼女が私を見詰めます。その瞳が、気のせいか、みつばちの羽根が起こす風のように、かすかに揺れて。
ひとつ風が吹いて、彼女の髪が、まるでさざなみのように、さわさわと乱れました。


「・・・ぜ、全部、 ・・・祝ってくれるの?」
声が、震えていました。
「うん。 ・・・遅れちゃったけど、今まで祝ってあげられなくて、ごめんね」
差し出した花を、彼女が、静かに受け取りました。
そして、その2本の花を、右手で大事そうに胸に抱えます。
「はい。あなたが3歳の時の、プレゼント」
それをまた受け取って、彼女は、ゆっくりと右手に持ち替えて。
「・・・ううぅ」
うつむいて、声をもらしました。そして、すん、と、鼻をすする音。
「ど、どうしたの?」
それに、彼女は激しくかぶりを振りました。
「ううん。違うの」
はらり、と、彼女の二つにまとめられた髪が、流れました。
彼女が、また、私を見上げます。
ヘッドライトのフラッシュ。
気のせいではなく、めがねの奥の彼女の瞳は、そのライトの光をはっきりと映して、大きく揺れていました。ほほが、黄色い光の中でも、真っ赤に染まっていました。
そして、彼女の唇が、震えながら、開きました。
ためらって、言葉に迷って、 ・・・そして。
「・・・ほんとうに、ほんとうに・・・ もう、なんだかわからなくなっちゃうくらい・・・」
息を、ついて。
「・・・うれしいの」


それから彼女は、今までの一年一年を刻みつけるように、涙をこぼしながら、紅い小さなバラを、大切に受け取ってくれました。


「・・・そして、これが、今年のあなたに贈る、誕生日プレゼント」
最後の一本を、私は彼女に差し出しかけて・・・
それを、少し引っ込めました。
「え・・・?」
びっくりして、受け取りかけた手が、宙にさまよいます。
そのまま、私を、涙にぬれた瞳で、見上げて。
それを、私も真正面から見詰めて、口を開きました。
「誕生日、ほんとうにおめでとう」
「あ・・・ ありがと・・・ う」
とたんに声が詰まってしまう、女の子。
「ほんとに、 ・・・うれしくて・・・ うれしくて・・・」
花束を胸で抱えたまま、彼女は、それでも私から、瞳を離さずに。
上を向いた彼女の右の目尻から、すうっ、とひと筋、涙がほおを伝いました。
それを、彼女は人差し指でそっとぬぐうと、私に笑いかけました。
「おかしいよね。 ・・・うれしくても、涙って、出ちゃうんだね・・・ ごめんね」
「ううん。何で謝るのさ」
「だって、だって・・・ でも、ほんとうに、うれしいの」
彼女が言葉をつむぎだすままに、私は黙って彼女に微笑みかけます。
「うれしくて、うれしくて、 ・・・うれしい気持ちが、わからなくなっちゃいそうなほど・・・ うれしいの」
「うん」
「あのね。こんなにうれしい日は、今まで生きてきて ・・・初めてなの」
「うん」
「もう、どうなっちゃってもいいくらい、 ・・・幸せ、なの」
「うん」
「・・・ほんとうに、ほんとうに ・・・ありがとう」
「うん」
そして、私は、最後の花を、彼女に改めて差し出しました。
「あなたに、歓喜と幸福が、 ・・・きっとそれ以上の幸せが、訪れますように。心からお祈りしながら、この花を贈ります」
「くっ、あ・・・ あ、ありが・・・ とう」
泣きながら、彼女は、最後の、今年の誕生日の花を、受け取りました。
それを、胸に抱えようとして・・・
「あ・・・ これ・・・」
「あ、よく気付いたね」
紅い小さな花の中心に、紅を貴重に、虹色にくるくると輝く石。
「オパールだよ。あなたの誕生石」
「うわぁ・・・」
「意味は、『歓喜と幸福』。 ・・・きっと、あなたに幸せが、もっともっと幸せが、訪れますように」
彼女は、ようやくうつむいて、深く、深く、ため息をつきました。
「・・・こんな幸せなのに、もっと、 ・・・幸せが、来るの・・・?」
「そうだよ。絶対に、また」
「・・・うれしいよぉ」
そこから先は、もう声になりませんでした。


ようやく彼女が落ち着いたころ。
「・・・そろそろ、戻らなくちゃいけないかな?」
「あ、うわぁ・・・」
驚きと、少しの残念。
彼女はあわてていずまいを正すと、私に向かって、深くお辞儀をしました。
「ほんとうに、ありがとうございました。 ・・・ほんとうに、うれしかった」
そう言って、また、抑えきれなくなって、彼女の瞳から涙がこぼれます。
「ほら、泣かないで・・・ そう言ってくれると、こっちもうれしいよ」
彼女が、のどをしゃくりあげながら、私の方を向いて、にっこりと笑って。
それが、一番きれいだったのかもしれません。
「ほら。この袋も持って。その花束を飾るかごが入ってるから」
「・・・ありがと」
それを手に取って、彼女は店に・・・ 向かわずに、私の前に、たたずみます。
「どうしたの?」
「・・・あ、あの。あたし・・・ お礼がしたくて」
「いいって。だって誕生日なんだし」
「ううん。ほんとは、ほんとは、何か私もあげたかったんだけど・・・」
そこで、彼女はうつむいて、ぽそっ、とつぶやきました。
「来てくれるかどうか不安で・・・ 何も、持ってきて・・・ ないの」
「・・・ご、ごめんね」
すんっ、と鼻をすすって、彼女は首を振ります。
「ううん。でも、でも、今、お礼がしたくて・・・ でも、どうしたらいいか、わかんなくて」
そして、女の子は、ほんの少し、声を詰まらせて・・・
周りを、素早く見回しました。
彼女の後ろの方から、誰かが歩いてくる音。
それに、彼女は気付いたようです。
一瞬、唇を、きゅっ、と引き結ぶと、私を、真正面から、見詰めました。
「・・・あの。お礼になんかならないけど・・・ ていうか、め、迷惑かもしれないけど・・・ あたしが、したいだけだけど・・・」
彼女が、やおら私に近寄り、私の左手を、取りました。
びっくりする私を、彼女の揺れる瞳が貫きました。
突然、クラクションが鳴りました。
それでも、彼女の声は、私の耳に、確かに届きました。
「ほんとうに、うれしかった。ありがとう・・・」


そして、女の子は、そっと顔を落として。
熱い唇が、私の左手の薬指に。
まるで天子の羽根がふわりと流れるように。
触れました。


「ほんとうに、ありがとう!」
そう言って、彼女はくるりと身を翻して、ファミリーマートに戻っていきます。
胸に、大切な大切な花束を、抱えながら。


そして。
今、こうして書いているこの時にも。
私の左手の薬指は、あの熱い温度を、憶えているのです。




第9回

〜いろんなドキドキ〜
今日の東京は、午後から強い雨でした。
それでも、ノートンアンチヴィルスのソフト使用期限が切れてしまったので、私は、秋葉原にそれを買いに行きました。途中、LAOX Computer館がリニューアルオープンしていて、1階の本のコーナーが、旧LAOX MAC館の場所に移っていたことに驚いたり、話のタネに、後楽園で行われていたコスプレ大会をちょっとのぞいてみたり。雨の中、いろいろ久しぶりに外を楽しんできまして。
そして、家への帰り道。午後6時ころ、夕闇が徐々に空を覆ってきます。
最近、用事がなくて通り過ぎるだけだった、家の近くのファミリーマート。看板の光が、雨にぬれて輝いて。
あの女の子は、いるでしょうか。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。


ファミマが見えてきます。
店の前の煙草の自動販売機の前に、人影が。どうやら、煙草を補給しているよう。
その人影が、見慣れたシルエットになると、自然と笑みがこぼれます。
あの女の子が、煙草のカートン箱を持って、一生懸命、自動販売機に入れていました。


雨だから、足音も聞こえません。念のため、傘を深く持って、自分の顔を隠しながら。
そのまま、こっそり、近づいて。後ろから。
「元気ですか?」
「ひゃっ!」
女の子が、思い切り、びくん、と身体をふるわせて、煙草の箱を取り落としました。
くるり、と、振り向いて。
「うあぁ・・・ び、びっくりしたよ〜」
その一瞬、いつもの敬語まじりのしゃべり方ではない、自然な彼女が垣間見えて。
「ひ、ひどいです。び、びっくりしたぁ・・・」
「あはは、ごめんごめん」
「んもう・・・」
ちょっと唇をとがらせて、女の子は、落とした煙草の箱を拾いました。
そして、それを、胸に抱えて。改めて、私の前に立ち、私を見て。
ぴょこん、と、いつものお辞儀。
「お久しぶりですっ。いつもありがとうございますっ」
さっきむくれてとがったばかりの唇が、すうっ、と自然にきれいな三日月の弧を描いて。
眼鏡の奥のやさしい瞳が、うれしい、と、心のさざなみが自然にこぼれ出てきて。
それは、世界で一番の、極上の微笑みでした。


そのまま傘をさし続けている私に、女の子が、ちょっと首をかしげました。
「あ、あの。今日は何かお買い物は・・・?」
「うん。ちょっと、煙草」
女の子が、開けっ放しになっている煙草の自動販売機と、持っている煙草の箱を、くるくる、と交互に見て。
「うわぁ! す、すいませんっ。い、今すぐやりますっ!」
「ああ、いいっていいって」
「あの、店内にもございますので・・・」
「ううん。こっちがいいな」
「ひえぇ・・・ す、すぐに閉めますっ」
あたふたと、煙草の箱を入れようとするけれども、箱のサイズがちょっと大きくなった、マルボロ・メンソール。どうやら彼女の手が付いていかないようです。
「あ、いや。ちょっと・・・ あの、ゆっくりでいいから。全部入れてからで、いいから」
「でも・・・」
言いかけて、女の子が、まるで何かを感じ取ったように、ゆっくりと振り向いて、私の目を見ました。
念を押すように、私は、彼女に向けて、うなずきます。
「・・・ね?」
女の子は、ひとつ息を小さく吸い込んで。
何かに、思い当たって。
煙草の箱を胸に抱いたまま、うつむいて。
「・・・うん」
一言だけ、細い声で、つぶやいて。
ゆっくりと、ひとつひとつ、煙草の箱の感触を確かめるように、挿入口に入れ始めました。
そうしながら、また、私の視線が、彼女のそれと、からみ合います。
・・・これで、お話、できるよね。
・・・うん。
また、ひとつ、煙草をゆっくりと入れます。
私が傘をたたんで壁に立てかけたのを見て、女の子が、また、うつむいて笑いました。
「えへへ・・・」
それは、誰に向けた、というわけではなく、女の子の心が、そのまま外に、ころころっ、と転がってきたような、そんな自然な微笑みでした。


女の子の足元に置かれた煙草のカートン箱がなくなるまでの、短い時間。
雨の音が、普通は人を静かにさせるのでしょうけど。
「あの、この前のプレゼント、ありがとうございました。ちゃんと、かごにいれて、飾ってるんですよ」
「喜んでもらえてよかった。どんなのがいいか、わからなかったからねぇ」
「お部屋にもぴったりで。 ・・・何だか、知ってたみたい」
「ふうん・・・ 今度、お邪魔させてもらおうかな」
「え、ええっ・・・!」
落ちる煙草の箱。私はそれを予想していました。
店の前に敷かれたタイルの床に落ちる前に、見事にキャッチ。
「う・・・ す、すいません」
「ほんと、よく落とすよね。商品をそんなに落としちゃいけないよ?」
「あうう・・・ 店長にも言われてるんですぅ。あまり、いじめないでください・・・」
「あはは。やっぱそうか」
「むぅー。『やっぱ』はひどい・・・」
顔が赤くなっているのは、むくれたせいでしょうか、それとも、こうやって、一緒にたくさんしゃべっているからでしょうか。
「今日は、どこにお出かけだったんですか?」
「ちょっと秋葉原まで、パソコンのソフトを買いに」
「へえ・・・ 何ですか?」
「ウィルスのチェックソフト」
「あ、最近多いらしいですよねぇ。あたしよく分からないんですけど・・・ なんだっけ、あの、 ・・・メリッサ、とか言いましたっけ」
「あはは。それはもうだいぶ前の話だよ。最近新聞に出たのは、サーカムとか、コード・レッド、ニムダかな」
「うう・・・ わからないです。詳しいんですね」
「・・・いやそうでもないけど。ま、感染したら怖いから」
「あたし、メールとかしかやらないから・・・ 大丈夫ですよね?」
「わかんないよ? ニムダは、ホームページ見ただけで感染する場合もあるから」
「ひえぇ。怖いですね・・・ 今度、できたら、教えてほしいです」
「厳しいよー。基礎から叩き込んじゃうよ?」
「うわー」
クラクションの音も、今日は気にならず。
カシャン
カシャン
でも、煙草は一個ずつ、でも確実に、減っていくのでした。


「・・・」
ちょっと、女の子が、手を止めて。
カシャン
最後の一個が、自動販売機に、収まりました。
ちょっとだけ無言になった二人の間に、雨の音が割り込んできます。そういえば雨が降っていた、そんなことを思い出したり。
「・・・終わった?」
「・・・う、うん。 ・・・終わっちゃった」
「そっか」
あとは、自動販売機を閉めるだけ。
女の子は、のろのろと、自動販売機の扉のカギに、手をかけます。
また、手を止めて。
私を、そっと、見上げました。
小鳥のひなが、夕刻ひとり巣に残されて、徐々に忍び寄ってくる秋の夕闇の気配にふるえるような、眼鏡の奥の、彼女の瞳。
ふと気付くと、手が、伸びていました。
私の左手が、ゆっくりと、女の子の頭に添えられました。
「・・・ふあっ」
一瞬、ぴくっ、と身を引きかけて。
そのまま、彼女は、子猫が夜の眠りにつく時のように、そっと、瞳を閉じました。
おおきくひとつ、息をついて。
「・・・うう」
言葉にならない心が、自然と口からもれてしまって。
「・・・また、お話しようね」
こくり、と、女の子がうなずきます。
「・・・また、来るからね」
こくり、と、女の子がうなずきます。
「・・・まってて、ね」
こくり。
そのうなずきは、一番大きくて。
そして、女の子は、瞳を閉じたまま、彼女の右手で、頭に添えられたままの私の左手をさぐって。
彼女が、誕生日にキスした、私の左手の薬指を。
きゅっ、と、一回だけ、やわらかく、握ったのでした。


いつの間にか、私の左手は頭から外れていて、にっこりと私を見上げる彼女がいました。
「ありがとうございます」
「・・・あ、ああ」
「ほんとうに、うれしいんです・・・ ほんとう、に」
「そ、それはよかった」
私の方が、ぎこちなくなってしまいました。
にこにこと笑う彼女を見ていると、こっちまでうれしくて。
いつも、私に元気をくれる、ファミリーマートの女の子。
「・・・あ。煙草、買うんでしたよね?」
「あ、そうだったね」
すっかり忘れていたんですが、しかたありません。家に、買い置きの煙草が二箱くらいあるんですから。
「今、閉めますねっ」
女の子は、自動販売機の横にいる私に笑いかけながら、扉を閉めようと、手に力をこめました。
雨。
下はアスファルトではなく、タイル敷き。
そして、自動販売機の扉は、結構重い・・・
ま、まさか。
ズルッ
「・・・ひゃっ!」
彼女が叫び声をあげる直前から、私は動いていました。
足を滑らせた彼女が、うつぶせに倒れてしまいそうになり・・・
寸前、私は彼女を背中から抱きとめることができました。
ほっ、と安堵のため息が、私の口からもれて。
「うひゃあっ! うわ、うわ・・・」
抱きとめられた女の子が、あばれだしました。
「は、はな、離してぇ・・・」
訳もわからぬまま、私はあわてて彼女を立たせると、ぱっと手を離しました。
「う、うう・・・」
真っ赤になった彼女が、うつむいて、自分の身体を抱きすくめて。
特に、その制服に隠れて目立たないけれど、ゆるやかにふくらんでいる、胸あたりを。
あ、ああ・・・
そういうこと・・・ か。
「・・・うう、ご、ごめんな、さ・・・ い」
そうつぶやくのが精一杯で、女の子は、恥ずかしさで身をちぢめてしまいます。
二つにまとめられた髪も、恥ずかしそうにうなだれていて。
・・・ここは、普通にしてた方がいいかな。
くすくす笑ってしまいそうになるのをどうにか抑えて、私は、女の子に話し掛けました。
「大丈夫? 怪我はなかった?」
こくこく。
「気をつけないとダメだよ? 雨で滑るんだから」
こくこく。
「ここ、閉めていい?」
こくこく
私は自動販売機の扉を閉めました。ガチャン、という音が、ようやく彼女に落ち着きを取り戻させました。
「う、あ、あ・・・ す、すいませんっ!」
「ほら、カギ、閉めて」
「は、はいっ」
一度、カギが引き抜けなくて、あたふたしてもう一度、今度はやっと、引き抜けて。
空になったカートン箱を拾うと、女の子は、私にお辞儀をします。
「う、あ、ありがとうございましたっ」
「いえいえ・・・ あ、めがね、ずれてるよ?」
「ひええ・・・」
ちょっと大きめのめがねを直して、カートン箱を胸に抱いたのは、きっと完全に照れ隠しです。
「あ、あの。今日は楽しかったですっ」
「そうだね」
財布を取り出しながら、私は彼女に笑いかけます。
「また、来るよ」
「は、はいっ!」
最後のお辞儀は、いつもより勢いがあった、そんな気がしました。




Interlude2

〜予兆〜
〜 前 編 〜



最近、私が、ファミリーマートの女の子のことを書いていなかったのは、理由があったんです。


彼女が、ファミリーマートにいないのです。


へとへとに疲れた身体を引きずって帰り道を歩き、それでも向こうに見えるファミリーマートの看板が白くきらめく、夜にも・・・
久しぶりの休日、太陽の光に目を細めつつファミリーマートのそばを通り過ぎる私のすぐ横で、自動ドアが少し音を立てて開く、昼間にも・・・


彼女が、ファミリーマートにいないのです。


私に元気をくれる、満開の花のような彼女の笑顔。
私に安らぎをくれる、鈴がコロコロと転がるような彼女の声。
私に心の暖かさをくれる、まっかに染まった彼女のほほ。


この世の中に、まっすぐな思いがあることを教えてくれた、すべてを貫いて突き刺さる、彼女の瞳。


それは、ずっと見ることが出来るものだと思っていたのです。
私の欲しいものは、私の家の近くのファミリーマートのドアが開けば、いつもそこにあると思っていたのです。


それが、失われてしまったのです。


この、2週間の間・・・




今日、日曜日の東京は、まさに秋晴れ、という言葉が当てはまる、快晴の空。道行く人の顔も、心なしか明るく見えます。
そんな中、私は、何をするでもなく、家のパソコンのモニタを見ていました。
最初は、サイト更新をしようとニュースを探していたのに、マウスを動かす手がいつのまにか止まり、煙草は灰皿に、全てが灰になるまでそのままに放っておかれて。
休日が、休日じゃない。
せっかくのお休みに、何もする気にならない。
原因は、わかっているのです。
もう、2週間も、彼女に逢ってないから。
私に元気をくれる彼女が、どこにも、いないから。


いつしか煙草は、灰皿に全て灰となって、その白い残骸をさらして。
・・・ああ、煙草、切れちゃったか。
ぼんやりとした意識が、ようやくそれだけを自覚しました。
煙草、買いに行かなきゃ・・・


マンションの玄関を出て、すぐ目の前の煙草の自動販売機。別に、ファミリーマートに行かなくても、そこで私の吸っている煙草は手に入ります。
少し肌寒い空気。シャツを着てきて、よかったかも。
まぶしい日の光が、今はひどく嫌味に感じました。


ガタン、と煙草の箱が落ちてくる音が、妙に響いて。
セーラム・ピアニッシモの箱を取り出し、とりあえず、自動販売機の前で、一服。
ああ、煙草がおいしくない。おいしくなくなった時は、禁煙の時期かもしれないな・・・
そんなことを思いながら、いつもの習慣で、左を向きます。
向こうには、ファミリーマートの看板が。


もしかしたら。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子が。
お店の前を掃除しているかもしれない・・・


誰も、いない。


いるわけない。
もう、2週間もいなかったのだから。
きっと、バイトをやめてしまったんだろう・・・


あきらめる、というより、もう何も思うことなく、ファミリーマートから目を外し・・・


外しかけて。
視界の隅に、一瞬だけ、違和感を感じて。
既視感に似た、瞬間の感覚。


もう一度、ファミリーマートの方に、目を向けます。
・・・でも、やっぱり、あの女の子は、店の前にいない。見慣れたファミリーマートの制服の姿は、どこにも見えない。
気のせい・・・ だったのか。


いや。
ファミリーマートの手前・・・ 居酒屋の前に。
見慣れた、人影が・・・
うつむいて、ただそこに立ちつくして。
時々、周りを、おそるおそる見回して。
誰かを、待っている・・・?


晴れてるとはいっても、時折巻き起こる秋の風は冷たくて。
カーキ色のジャケットに、茶色をベースにした膝丈のチェックのスカート。黒いストッキング。それだけでは、少し寒いはずです。


髪の毛を、後ろで二つにまとめた、女の子。


胸が、高鳴ります。
まさか、まさか・・・
駆け出しそうになる、私の足。
大きく声を掛けたくなる、私の口。
秋の風が、彼女の方に向かう私にいたずらをするように、吹きつけます。向こうで、彼女が前髪を押さえた姿に、私は確信しました。


制服は着ていないけど、セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねた、あの女の子。
彼女が、そこに、立っていたのです。


前髪を押さえた手を離し、女の子は、ちょっとため息をついたようでした。
どんどん近づいてくる、彼女の姿。
そして。
彼女が。
こちらを向いて。


私に気付きました。


教会のチャペルから、鐘の音とともに、純白のハトが、一斉に晴れた空に飛び去っていくような。
コスモス畑のコスモスたちが、一面に広がって次々と花びらを震わせて開いたような。
天の器に集めて入れた、きらめきまたたく星のかけらを、澄み切った夜空へいっぺんにまき散らしたような。


そんな、彼女の笑顔でした。




〜 後 編 〜



色とりどりの宝石のような、彼女の笑顔。
「あ・・・」
声が聞こえる距離ではないのに、確かに彼女は、そう言った、そんな気がして。


バラの花束のような、女の子の笑顔。
一瞬、私の周りの時は、彼女のために止まったような気がして。


私の足も、止まってしまって。
でも、女の子は。
私よりも早く、駆けてきて。
チェックのスカートが、大きく弾みます。
後ろで二つにまとめられたセミロングの黒い髪がゆれているのは、走っているからではなく、きっと、彼女の心臓の鼓動がそこに伝わってしまっているから。
秋の風が、一陣。
彼女が駆け抜けて巻き起こした風が、その秋の風の香りを吸い込みました。まるで、さっきのコスモス色をした笑顔の残り香の色のような、やさしい色をした、彼女の風。


やさしい風が、私を。
包み込む・・・


その直前で。
風が、急に止みました。


目の前で、風が人の形を取って。
私に。私の目の前で。本当に目の前で。
風が、私のシャツの両腕を、ぎゅっ、とつかんで。


私を見上げて。
そして、すぐに、うつむいて。


「逢いたかった・・・!」
ささやきました。
「逢いたかった・・・ よ・・・」


飛びついてくるほどの勢いだったので、ちょっと拍子抜けしましたが。
何も言わず、私は、小さなやさしい風に、笑いかけました。
そして、私は彼女の頭に、手を当てようとしました。
すると彼女は、一瞬、びくっ、としました。まるで、子犬が飼主の胸からケージに戻されるのを恐れるように・・・
そこにずっといたい、とつぶらなひとみで訴えるように、私を、見上げました。彼女の手は、私のシャツの両袖を、ぎゅっと持ったまま。
それを見て、私は、くすくす笑ってしまいました。
「・・・な、何よぉ」
小さく唇をとがらせる、彼女。
「いやいや・・・ 何でもないって」
久しぶりにしては、やや場違いかもしれなかったけれど。
改めて、私は、女の子に、笑いかけました・・・ 腕をつかまれていて頭をなでることができない分、それ以上の気持ちをこめて。
彼女のひとみを、見つめて。
「私も、逢いたかったよ」


とたんに、彼女のひとみがまぶたで隠されて。
くしゃっ、と崩れる、彼女の笑顔。
「・・・ううう」
あわててうつむいて、声を抑えます。
「あたし・・・ 逢いたかった・・・」
「うん」
「・・・ご、ごめんなさい。急にバイトに出なくなっちゃって・・・」
「うん」
「逢いたかった。逢いたかった・・・ 逢いたかった・・・ よぉ・・・!」
「逢えたでしょ? 今・・・ ね?」
「・・・うん、うん」
口元を彼女が手で抑えて、声を殺します。
ようやく自由になった手を、私は、女の子の頭に、そっと、そっと、置きました。
「逢いたかった・・・ の・・・」
それだけを。その言葉だけを。
女の子は、何度も何度も繰り返して。
まるで呪文のように・・・
望みを言葉にして、それをかなえる・・・ 言霊の呪文のように。
それが、かなった今も、何故か・・・ 呪文のように。


大粒の涙は、呪文とともに、アスファルトにしみ込んで。
まるで、雨のように。


雨のように。




ようやく落ち着いた彼女に、私は、ハンカチを差し出します。ズボンのポケットにちょうど入っていた、バーバリーのハンカチ。それは、彼女のスカートと同じ、バーバリー・チェック。
女の子は、黙ってそれを受け取りました。
めがねを外して、涙を拭きます。
涙を拭いて、ハンカチを当てたまま、動きを止めて。
「・・・ご、ごめんなさい」
ハンカチの奥の唇が、動きます。くぐもった、声。
「何だか、急に泣いちゃって・・・ ごめんなさい」
「いやいや・・・」
そのまま、彼女は動きません。
呼吸が収まって、涙も全部ハンカチにしみ込んだはずなのに。
秋の風が、一陣。
それは、ほんとうの秋の風。
来たるべき冬の息吹を感じさせる、うす寒い、秋の風でした。


「・・・どうしたの?」
私が声をかけると、女の子は、はっ、として、ハンカチを顔から外しました。
そして、にっこりと、私に笑いかけました。
まるで、雲間からのぞく月の光のように。
「えへへ・・・」
唇をかんで、私を見上げる彼女は、いつもと同じように。
いつもと同じように・・・


「ごめんなさい。ほんと、どうしちゃったんだろ」
少し大きめのめがねをかけて、ほう、と彼女はため息をつきました。
差し出されたハンカチを受け取って、私は、彼女を見つめます。
その視線に気づき、彼女は、またにっこりと私に笑いかけて。
照れたかのように、うつむきました。
「ごめんなさい・・・ 中間テストで、お勉強しなくちゃならなくなって」
「・・・それで、バイト、休んじゃったの?」
「ごめんなさい・・・ 言っておこうと思ったんだけど、なかなか逢えないうち・・・ に・・・」
一瞬、彼女の声が詰まりかけて。
大きくひとつ、深呼吸をして、女の子が首を振りました。
「えへへ・・・ あたし、あんまり頭よくないから・・・」
「そっか・・・」
「いっぱい勉強しなきゃ追いつかなくて・・・」
「がんばってるんだ」
「・・・うん」
彼女はうなずきました。
うなずいたまま、うつむいて。
いきなり、顔を上げて。
「お勉強、教えてくれる?」
「・・・は?」
「なかなかわからないところがいっぱいあって・・・ 教えてほしいな」
そして、にっこり。
「そ、そりゃ無理だよ・・・ もう、忘れちゃってるよ」
「・・・そっか」
また、うつむいて。
秋の風が、二人の間を吹き抜けます。
それを感じて、女の子が、また、顔を上げました。
「ねえねえ・・・」
まるで、秋の冷たい風を嫌がるように。
沈黙を、嫌がるように。


「・・・どうしたの?」
「え?」
私の問いかけに、女の子が、顔を上げました。
「・・・何か、今日、おかしいよ」
「・・・そんなことないよ?」
笑って、女の子は答えました。
せいいっぱい、にっこりと笑って、女の子は答えました。
「やっぱり、ほんと久しぶりだから・・・」
「・・・」
「ちょっと、どきどきしてるかもしれない・・・」
そう、つぶやいて。
その時、彼女はうつむきませんでした。
私の顔も、見ていませんでした。
私の身体の向こう、どこかわからない、あらぬ方向を見詰めて。いや、ぼんやりと見て。


そんな、視線は。
そんな、何も意思のこもっていない、無意味な視線は。


私の知っている彼女は、いつもひまわりのような笑顔で。
いつもビー球が転がるような動作で。
おもちゃの風車がくるくると回るように。


元気に輝いていた、いつもの彼女。
ぴょこん、とお辞儀をすると、二つにまとめられた髪が、同じように、ぴょん、とはねるのが愛らしくて。
『いらっしゃいませっ!』と言う彼女の声は、りん、と引きしまってお店に響き。
照れてまっかになってしまう時の彼女は、いつも心を抑えきれずに、空気まで照れてまっかに染めてしまう。


そんな彼女が、今日は、いないのです。


「・・・ほんとうに、どうしたの?」
「ど、どうもしてないってばぁ」
私の疑念を打ち消そうと、私の目を見て笑いかけて。
私と、目が合って。
笑い顔が、こわばって。
「中間テストなんて、普通のところじゃもうずっと前に終わってるの、だいたいわかるよ」
「・・・」
「何か、他に原因があったんだ・・・」
「・・・」
女の子が、弱々しげに首を振りました。
「・・・ううん。違うよ・・・」
「違わないよ」
そっと、私は断言しました。
「普段のあなたを・・・ ファミマでバイトしてるときのあなたを、見てるんだから」
「・・・」
絶対に、反論できないその言葉。
それに答えることは、私と彼女が今まで笑い、話し、泣き、戸惑った・・・ その時間を、消してしまうことだから。


私の口から、ため息が洩れました。
はっきりと、音を立てて。
それは、秋風にかき消されることなく、はっきりと、音を立てて。


すうっ、と。
ほんとうに、いつの間にかわからないほど。


女の子は、私のひとみを見詰めながら。


すうっ、と。
ほんとうに、静かに。


声も、なく。
私を、見詰めながら。


彼女のひとみから、涙が一筋流れ落ちました。




それは、澄み切った夜空にひとつ流れる流れ星のように、鮮やかに、はかなく。
手のひらの上に落ちようとするひとひらの雪のように、やわらかく、消えゆき。
夏の夜の最後に残った線香花火のように、きれいで。
そして、必ず失われていくもの。


声をあげずに、女の子は、泣きました。
私の目を、身体を、心を・・・ 私の何もかもを貫く、きれいなひとみを見開いて、泣きました。
目をそらすことが罪になるほどまっすぐに、私を見詰めて、泣きました。


涙は、ほほを伝い、あごを伝い、アスファルトに落ちて。
それが、少しずつ、増えていって。
それぞれの涙の粒の跡が、わからないほどになって。


泣きながら、彼女は、私に告げました。
今、1か月ほど単身赴任をしていた父親が帰ってきていること。
母親が許していたファミマのバイトは時間が遅いので感心しない、という理由で、一時的に休まされていること。
父親の単身赴任が長引きそうなので、家族でその単身赴任先に引っ越すかもしれないこと。


父親の単身赴任先は、イギリスであること。




凍りついたような時間。




ただ、彼女は涙を流していました。
その間、決して、声を上げることなく。
静かに、涙を流していました。





To Be Continued