ファミリーマートで捕まえて

〜Dreaming〜




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Postlude1

〜追 憶 1〜
冬の清冽な寒さが、ふと天を仰いだ私の首筋からしみてきました。
12月24日。天皇誕生日が日曜日だったので、月曜日だけど振替休日でお休み。私も、何とか仕事をまとめて、この日は、この日だけは、1日空けることができました。
彼女が、待っているから。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子が、寒空の中、手をこすり合わせながら、私のことを待っているから。


待ち合わせは、近所のファミリーマートの横にして。
二人が初めて逢った場所、ファミリーマートの横にして。
始めと終わりは、きっと同じ場所がいいと思ったから。


わかっていたけれど、晴天を確認した私は、視線を元に戻します。見詰める先は、待ち合わせの場所。緑色と青色の看板が光る、ファミリーマートのすぐ横の居酒屋の前。


ほら。いた。
女の子が、こっちを向いて。
無邪気そうに、手を振って。
襟のファーが可愛らしい、真っ白なコート。キャメル色のひざ下までのブーツからのぞく、少し茶色っぽいハイソックス。コートの胸元からは、淡いピンクのセーター。


そして、満面の笑顔。


それが、どんな笑顔なのか、今でも思い出せないけれど。
ただ、精一杯笑っていた。
それだけは、憶えているのです。




「お待たせしました」
「もう、遅いよっ」
唇をとがらせて、女の子の第一声。怒ってる・・・? いや、それはきっと、照れ隠しにちょっとだけつっぱってみただけで。
すぐに、彼女はうつむいて。
「えへへ・・・」
「・・・ん? どうしたの?」
「ううん。何でもない」
口紅も、服に合わせてほんのりピンク色。それが、動きました。
「あ、あの・・・ 今日一日、よろしくおねがいしますっ」
「・・・こ、こちらこそ」
まるでファミマにいる時のような挨拶で。
目を見合わせて、2人は思わず吹き出してしまって。


「ね」
「ん?」
「服、おかしくない?」
イマイチ、とか言ったら服を替えに走るのだろうか、などと思いながら、私は女の子を眺めました。
ほんとうに、思ったのです。


きっと、世界で一番、愛らしい彼女。


「いや、ホントかわいいよ」
「ほんと?」
「ほんと」
「よかったぁ・・・」
女の子は、ちろっ、と舌を出して。聞こえない笑い声を洩らして。
微笑みは深く深く、それ以外の全てを忘れさせて。
まるで魔法のように、私の心を捕まえて。


その時、確かに。
ファミリーマートの前で、私の心は捕まって。


今日、一日。
輝くような時間が、今日一日、これから始まる。
私は左手を差し出しました。
彼女はすぐにその手を右手で握りました。


「さあ、行こっか」




午後2時ころ。
横浜みなとみらいホールへと、2人は歩いていました。
「うわぁ、すごい人だねぇ」
めがねの奥の瞳をまんまるにして、女の子はきょろきょろと周りを見回しました。
確かに、人、人、人。どこからわいてでてくるのか、と感心しきりなほどに、人の波。いや人の海。
「さ、早く行こ? 遅れちゃうよ」
みなとみらいホールで、今日は、ちょっとしたクラシックのコンサートがあるのです。厳粛な雰囲気というものではなく、カジュアルなクリスマスのクラシック。つてをたどってチケットを手に入れることができて、私はほっと一安心したものです。
「あ、待ってよぅ」
女の子が、器用に人ごみをすり抜ける私を追いかけて、そして、私の左手をぎゅっとつかんで。
「やだよ、迷子は」
「ごめんごめん」
手のひらから伝わるぬくもり。
それは、今この時の瞬間だけを意識させる魔法。




「あ、この曲も知ってるよ」
チャイコフスキー「くるみ割人形」の後、ヴィヴァルディの「調和の霊感」第6番がヴァイオリンの物悲しい旋律とともに奏でられると、女の子はにっこりと笑って、隣の私にささやきかけました。とは言っても、薄暗いホールの中、お互いの顔はよく見えないのだけれど。
「バロック時代? だったよね」
「そうだよ」
満足そうにうなずいて、彼女は再び舞台へと視線を戻しました。
きらきらと、まるで虹のようにきらめくその瞳。


プログラムは進んで、バッハの「ヴァイオリン協奏曲」第2番。バッハとは思えない、光に満ち満ちたその調べ。
不意に、彼女の右手が、肘掛に置いた私の左手をさぐって。
動けない私を見ることなく、やがて、私の手の甲の上に、自分の手を重ね合わせて。
まっすぐ、前を向いたまま。


そして、フルートのやわらかい音色が会場の全てを彩る、グルック「精霊の踊り」の曲中に、手をずっと重ね合わせたまま、彼女はつぶやいたのでした。
「・・・ねえ」
「なに?」
「前に、あたしの誕生日の時、オパールの薔薇をくれたよね」
「・・・そうだね」
「意味は、『歓喜と幸福』って・・・ あたしに、もっともっと、喜びと幸せが訪れますように、って、言ってくれたよね」
「・・・そうだね」
彼女は、少しだけ大きく、息を吸い込んで。
やはり、私を見ることなく。
それでも、力強く。
ささやいているはずなのに、力強く。


「きっと、今・・・ その願いは、かなったよ」




コンサートのエンディング、アンコールは、「White Christmas」。それを、ホールのみんなで歌う、ということ。
彼女は、パンフレットにかかれた英語の歌詞を目で追いながら、誰に聴かせるでもなく、歌っていました。


I'm dreaming of a white christmas...


真っ白なコートを腕に抱え、彼女は、うつむきながら、歌っていました。




それは、夢のような時間。
それは、瞬く間に、過ぎ去っていったのでした。




Postlude2

〜追 憶 2〜
幸せな時間は、早く過ぎ去っていくということ。
これはいったいどういう意味なんでしょうか。なぜ、神様は、人にそんな感覚を与えたもうたのでしょうか。
幸せな時間ほど長く続いて欲しいのに。
それは、許されない所業なのでしょうか。


いくら私が思っても、時間の流れが変わることはなく。




コンサートは4時ころ終わり。
「ねえ。ランドマーク・タワー、見ようよ」
早くも日が傾きかけた中、桜木町駅に向かう途中、女の子は私に笑いかけました。多少は空いているワールド・ポーターズにでも行こうと思っていた私は、ちょっと眉をひそめて。
「えー。すごい混んでるよ?」
「それでも、見るの」
「何でさぁ。疲れちゃうよ?」
「見るの」
「だって、ほら・・・ あれ」
私は、桜木町駅からランドマークにつながる陸橋を指差します。そこには、ぞろぞろと行列が出来ていました。
「あんな中に、入るの?」
「うん」
女の子は、大きくうなずいて。
「一緒に、あの中で、お店見たいの」


スタージュエリー、ヴァンドーム青山、ローラ・アシュレイ、フォリ・フォリ・・・
疲れ切った身体で、それでも私は必死に女の子についていきました。何だか宝飾店ばっかりなんですが、やはりどの店も、二人連れのカップルでいっぱい。ろくに品物も見ることができません。
それでも、女の子は、あちらの店こちらの店、目まぐるしく足を運び。
「ねえねえ。これ、これ・・・ かわいい〜」
「ほらー! あっちで何かやってるー!」
少し先に立って、私に向かって手を振る彼女。その顔には、心からの笑顔。
私と一緒にこうして歩いていることへの、心からの笑顔。
私は、これが見たくて、今日一日を無理矢理空けたんだった、と。
今、改めて思い返しても、そう断言できる。
そんな、彼女の笑い顔。


「何やってんのー? はやく〜!」
二つに結んだ髪が、野うさぎの長い耳のように揺れて。
「はいはい・・・ 今、行きますよ」
ぼやきながらも、私はゆっくりと歩いていって。
彼女に、ついていったのでした。


時は、当たり前のように過ぎていって。




えんえんと、2時間くらいランドマークをさまよって。
ランドマークの最上階に行こうと言う彼女を説き伏せて、電車へ。
思ったほどには混んでなくて、彼女を座らせることができて。
彼女は、手すりにつかまる私を見上げて。ふと私が下を向いて、目が合うと。
「えへへ・・・」
何回も、何回も、そうして笑っていました。


みなとみらいから、東京へ。
流れる景色は、川を越えて、次第に見慣れた風景へ。
家が流れ、ビルが流れ。あらゆるものが、流れるように過ぎ去って。
時間も、流れるように過ぎ去って。。


「暗くなるの、早いね・・・」
ほんの少しのつぶやきが、今まで忘れていたことを、あまりにも鮮やかに思い出させて。

そして。


電車はガタゴトと揺れ。
いつしか、二人の口数は少なくなり。とうとう、息の音すら聞こえなくなって。
窓の外は、もうとっぷりと日が暮れた夜の7時。


それが意味することは、たった一つだけ。




新宿に着いて、東口三越裏にひっそりとたたずむフランス料理の店へ。少し瀟洒な雰囲気で。
とても、沈黙が似合うところで。


沈黙が、似合うところで。


「どう? おいしい?」
「・・・うん。とても」
「よかった・・・」
「・・・」
「・・・」


とても、沈黙が似合うところで。


何もできないまま、ただ時間は過ぎ去っていって。


食事中、何もしゃべることができないで。


嫌味なほどにおいしい食事で。




お店を出て、2人は自然と手をつなぎました。
でも、それは、昼間のとは全然違う、感触でした。


どこにもいかないで。
離れないで。


冬の刺すような風が、吹きつけました。


おわらないで。
離さないで。




ずっと。
ずっと一緒にいて。




あてどなく、新宿の南口の方を歩く2人。
ずっと、手はつないだままで。
暖かい手は、ずっとつないだままで。
けれどもそれは、確実に、いつか離さなければならない、暖かい手で。
引きのばしても引きのばしても、絶対に離さなければならない、暖かい手で。


それが、どんどんつらくなって。




けれども、その言葉は、やっぱり女の子からのものでした。


「・・・もう、帰らなくちゃ」


「・・・そうだね」


うなずく私。


「あ・・・ これ・・・ クリスマス・プレゼント」
「・・・ありがとう」
せっかく選んだプラチナの指輪も、何の意味もなくなっていた、午後の10時。




しゃべれない。
声が出ない。


今しゃべらなければ、もうしゃべれない。


それでも、声が出てこない。




帰りの電車の中でも、2人はひとつも口を開くことなく。


ただ、手だけを。
固くつないで。




涙すら出ずに、駅に着いて。
向こうの方に、見慣れた看板。
ファミリーマートの看板が、輝いていました。


とても、きれいに輝いていました。




2人が出会ったファミリーマートが、とてもきれいに輝いていました。




「・・・ねえ」
「なに?」
「ほんとうに、今日はありがとう」
「・・・」
「ほんとうに、楽しかった」
「そっか」
「ほんとうに、ほんとうに、楽しかったよ」
「うん」
「もう、きっとこんなに楽しいことなんてないよ」
「・・・さっき言ってたオパールの指輪があるでしょ? できたら、大切にしてて欲しいな」
「大切にするよ! でも、でも・・・ でもね?」


ファミリーマートの看板が、緑に青に、とてもきれいでした。


「もう、きっとこんなことってないんだ、って思うよ」
「そんなことないよ。きっとこれから、もっともっと・・・」
「そんなのない!」


ファミリーマートの看板が、車のライトに照らされて、一瞬だけ黄色く染まりました。


「ねえ、知ってるの?」
「え?」
「あたし・・・」
「・・・」
「あたし、あたし・・・」


ファミリーマートの看板が、その時、爆発したように、真っ白に染まりました。




「行きたくないよ! イギリスなんて行きたくないよ! あなたと・・・ あなたと離れるの、イヤだよ・・・!」




「好きだよ。あなたのことが好きだよ。大好きだよ・・・」




「離れるの、イヤなんだよ・・・」




真っ白なコートが、風に吹かれて。


女の子は、私を思い切りにらみつけて。


突然、身を翻して。


走っていって。




白い姿が、いつまでも。
まるでコマ送りのように、残像として私の瞳に、脳裏に焼き付いて離れずに。


確かに、彼女の瞳から大粒の涙が流れ落ちていたことが、私の記憶から消えずに。




全ては、過ぎ去っていって。


そして、その日を、迎えたのでした。




Labyrinth of the Mind

〜乱 想〜
「好きだよ。あなたのことが好きだよ。大好きだよ・・・」


「離れるの、イヤなんだよ・・・」





言葉はすぐに空気に溶けてしまうけれど。
それは、消えることのない、彼女の言葉。
記憶に刻み付けられて、これから絶対に消えることのない、彼女の言葉。


真っ白なコート、それはまるで天使の衣をまとったようで。
夜の闇にいっそう鮮烈に、ありえないほどの輝きを放って。
クリスマス・イブのその日、彼女は、私の前から駆け去っていったのでした。


私を、にらみつけて、駆け去っていったのでした。




私は、部屋で、煙草に火を点けました。
それは、暮れも押し迫った、12月30日のこと。
ようやく仕事も片付いて、何とか家にいることができるようになった、30日のこと。




そのにらみつけた瞳に、刹那垣間見えた、彼女の涙。
それを思い出すたび、私の心に戻ってくる、彼女の動作。久しぶりに逢えた、彼女がホーム・パーティを抜け出してドレスのまんまで走ってきた、あの時の。


「・・・1年かぁ」
「最低でも、だって」
私のつぶやきに彼女は答え、カラカラとストローでコップの中の氷をかき混ぜました。
めがねの奥の瞳が妙に大人びて、それがひどく不自然でした。



不自然にまで大人びた、彼女の動作。
そして、クリスマスに私を誘った時の、彼女の微笑みも。


「あたし、もう、絶対に行かなくちゃならないから」
いよいよその微笑みは深くなって。


何でそう言いながらあなたは笑えるの?


「もう、あと1年くらいはこっちに戻って来れないとかになっちゃうから」


何でそう言いながら笑えるようになったの?


「あたしに・・・ 思い出、くれないかな・・・?」





彼女の、そんな振る舞いが。
最後の泣き顔・・・ それと、コントラストを形作って。
あまりにも違い過ぎる、彼女の動作、言葉、そしてその表情。


それは、きっと。
急に引越しが決まった時から、必死に彼女が身につけようとしてきたもの。


我慢して、我慢して。
少しずつ編みこんでいった鎖かたびらのように。
少しずつ塗り重ねていった糊のように。




あたしは、平気だよ。


しょうがないもん。




彼女が、そう言い聞かせてきていたこと。


それに、私は。
気付いているかのように、今までこうやって書いてきて。
何も、気付いていなかった。


気付いていたのかもしれないけれど、何も答えていなかった。




そして。
最後のその瞳は、確かに。
確かに、私に向かっていて。
ある言葉を、投げかけていました。




あなたは、あたしと離れたくないって思ってないの・・・?


あなたは、あたしがキライなの・・・?


あなたは、あたしのことをどう思っているの・・・?




目をそむけ続けてきたその問に、私は、煙草の煙を大きく吸い込んで、天井を見詰めて。


目をそむけていたのはなぜ?
もう10も年が離れているから?
彼女の引越しを止めることができないほど力がなかったから?
高校生となんて、世間体が悪いから?


いくらでも出てくる言い訳に、煙草の煙を吐き出しながら、苦笑いして。


それでも。
私に元気をくれた。
私に安らぎをくれた。
そして、私に笑顔をくれた。


彼女の輝く笑顔。


それは、もう帰ってこないことは、明らかで。




明らか・・・


明らか、か・・・




何だよ、えせ論文みたいな言葉遣いをして。


こんな時でも、何もしないんだな、お前は。


昔から、何でもあきらめが早かったしな。


できないことがあると、すぐに言い訳してさ。


方向修正だけは、うまかったよ。それは認めるよ。


できる範囲で、それなりの成果を収める、それは確かにうまかったよ。


いつでも冷静に、目標を自分の力で何とかなりそうなところに持っていって。


それを周囲にも納得させて。


ま、いいんじゃないの?


それが、お前の言う「大人」なんだろうしさ。




それで、いいんなら、さ。








私は、煙草の火を消しました。
時計を見て。昼の12時過ぎ。


コートを着て。
髪を適当に整えて。
財布を持って。


ああ、もう準備なんてどうでもいいや。




いつ、出発するのかなんて知らないけれど。
もう、出ちゃったのかもしれないけれど。


伝えたい言葉が、あるんだ。


もう遅いんだろうけれど。
今さら何を言っても無駄なんだろうけれど。


それでも。
伝えたい言葉が、あるんだ。




私は、外へ出ました。
彼女の家なんて知らない。
約束もしてない。
どこへ行ったらいいのかなんて知るわけない。


それでも、足は動きました。


彼女と最初に出会った場所。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子と、初めて出逢った場所。


近所のファミリーマートの看板は、その日も、きれいに光っていました。




Reminiscence of the End of...

〜追 憶 3〜
全ては、きっと裏切られ続けるから。
全ては、きっと叶うことのない夢だから。


全てに裏切られ続けたから、きっと「希望」を抱くのかもしれません。
そして、その「希望」にも裏切られ、だからまた新たな「希望」を抱き、そしてそれにも裏切られて・・・


今、この文章を書いているこの時に、そんなことを思って。


なぜなら、私は、あの時に。去年の暮れも押し迫った、あの30日の日に。
近所のファミリーマートに走っていったから。
彼女と最初に出会った場所へ。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子と、初めて出逢った場所へ、走っていったから。




自動ドアが開いて。
開くのももどかしく、私はお店の中に入って。
コートが、私をあざ笑うように、はためいて。


「いらっしゃいませ」
迎えてくれたのは、やっぱり店長の声。


そんなのには構わず。
すぐに、お店の中を見回して。


いない。
あの女の子がいない。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子がいない。

もしかしたら、従業員室に入っているのかもしれない。
待っていれば、きっと出てくるかもしれない。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子が、出てきてくれるかもしれない。


私は、深呼吸して、雑誌のコーナーへ。
適当な雑誌を取って、目を走らせて。
その間にも、私の意識は背中の向こうの従業員室へ。


扉が開く音がするたび、私は振り返って。
彼女が出てきたんじゃないか、と振り返って。
いっそ後ろを向きながら読んだ方がいいんじゃないか、と思えるくらいに、振り返って。



そんなことは、分かっていたのかもしれませんでした。
彼女が、今日はここにいないことなんて、分かっていたのかもしれませんでした。
彼女が、もうイギリスに行ってしまっていることなんて、分かっていたのかもしれませんでした。




どのくらい時間が経ったかなんて、その時の私は知るはずもなく。
ただ、全然来ないということ。それだけが、分かってきただけで。
雑誌のページをめくる手の動きは遅くなって。それと一緒に、雑誌の文字を絵を、追いかける目の動きも、遅くなって。
そして、それは止まって。


止まったことを、もう1人の私がようやっと気づいて。




我知らず、吐息が洩れました。
吐息が洩れたことに気付いたこと、それが、私に全てを思い出させました。


終わりの時が、来たということ。


もう全ては過ぎ去っていった後だということ。


手の隙間から、希望は流れ落ちていってしまったこと。




一つ、苦笑い。
手の隙間どころか、私は、手さえ差し伸べていなかったじゃないか。




全ては、裏切られ続けていって。
それでも、最後に残るのは、「希望」という言葉で。


私は、飲み物とヨーグルトを適当につかんで、レジに行きました。
レジでは、店長が、年末らしく忙しそうに立ち働いていました。この時期、バイトもあまり入りたがらないのでしょうか、中華まんのボックスを見たり、何か帳簿をつけたりと、ひとところに落ち着かずに、立ち働いていました。


私は、品物をカウンターに置いて。
店長は、入ってきたお客さんに「いらっしゃいませ」と声を掛けながら、私の飲み物とゼリーの会計を手早く済ませて、袋に詰めて。
私は、レジに表示されたお金を払って。


袋を手に、いつもなら足早に出口に向かうのですが。
今日は、今日だけは、それはできませんでした。


そこに、最後の「希望」があるはずだから。




「・・・すいません」
「はい? 何でしょう?」
会計も終えたはずなのに、という表情で、店長が私を見詰めました。
少しだけ髪に白髪が混じっているけれど、中年、というにはまだ若い、という感じのおじさん。忙しそうに、私がこうやって話し掛けている時でも、手が書類を繰っているけれど。


あなたが、最後の希望なんです。


「あの・・・」
「?」
「ここでバイトしてた・・・ 女の子は・・・ もう、やめちゃったんですか?」
「・・・? 女の子と言われましても・・・ どんな感じの女の子でしたか?」


セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。


一瞬、彼女が記憶の中でフラッシュバックして。


「あの。髪を後ろで二つに結んで、眼鏡をかけてたんですが・・・」




「ああ、あの子」
店長が、うなずいて。




「26日で辞めてます」







その時、「希望」が砕け散る音を、私は確かに聞きました。




Reminiscence〜Scintillation of Silver Lining

〜追 憶 4〜
「希望」は裏切られるもの。
「希望」は叶わないもの。
「希望」は砕け散るもの。


砕け散った後の、「希望」の欠片がキラキラと、私の心を身体を駆け巡り。




去年の31日、午後10時まで私は会社で仕事。猪木祭りを見ることができないという心配が、もしかしたら会社で年越しをしなければいけないのではないかという危惧に変わり。
それでも、泣きそうになりながらも、必死に仕事をしていました。


それは、きっと、よかったのかもしれません。


忙し過ぎて、全てを忘れることができたから。
ほんの少しでもため息をつくと、全てを思い出してしまうから。
砕け散った「希望」の欠片が、私の心も砕いてしまうから。




そして、忙しい忙しいとつぶやきながら、普段は参加しないチャットへお邪魔して。チャットで年を越して。チャットで楽しくみんなと話して。


ニュースを更新して。新年らしいニュースはないか、とサイトをいろいろ回って。休みの間はニュースのネタがない、ということを痛感して。


それでも何とかニュースを形にして、一息ついた私の脳裏によぎったこと。
もう、やることがない。
もう、忙しくない。
もう、手元に何もない。


後に残ったのは。




「ファミリーマートで捕まえて」を書くこと。




彼女とのことを、思い出すこと。
彼女との日々を、全て形に残すこと。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子のことを、文章に綴ること。




今まで忙しくしてきたことが、全て無駄になるような。
今まで思い出さないようにしてきたことが、全て意味を無くすような。
今まで目を背けてきたことへ、私の心の全てを以て、もう一度、目を向け直すような。


一つ、ため息。


なぜ私は、この文章を書き始めてしまったのか。
なぜ私は、彼女に見られることがないのにこの文章を書いていたのか。
なぜ私は、彼女とのことをこうやって記していこうと思ったのか。


また一つ、ため息。


いつまでも、彼女がいるはずはないのに。
いつまでも、彼女が私に笑顔を向けてくれるはずはないのに。
いつまでも、彼女のとの幸せな時が続くことはないのに。


もう一つ、ため息。


そんなことはとっくに分かっていたはずなのに、何で・・・ 私は・・・




知らず知らずのうちに、私は、唇を跡がつくほど強くかんでいて。
少しでも気を抜くと、心の中の何かが溢れ出してきてしまいそうで。
せわしない吐息は、ある感情を予感させて。


待って。


今、心が動いたら。


何も。
何も。
何も。


できなくなってしまう。




寸刻の間。


私は目を閉じて、全身の力を抜きました。


その一瞬のうちに。
心を殺して。


彼女との事を書くのに、心を殺して。


彼女の笑顔を思い浮かべるその心は、他ならぬその心に殺されて。


そして、私の両手は、キーボードの上を動きました。
思ったより軽やかに、私の指はその題字を打ち込むことが出来ました。


「不定期連載〜ファミリーマートで捕まえて」


と。






とりあえず1月1日の分を書き上げて。
一息つくと、途端に疲労が襲い掛かってきました。もう1日の午前2時くらいだったけれど、それは眠気とは違う疲労で。
張り詰めていたものが切れた時になだれかかる、あの感覚。


一つ、苦笑い。
私は、彼女との事を書くのに、そんなに張り詰めていたのか。


以前は。
昔は。
彼女と出逢ってすぐのころは、書くのがとても楽しかったなぁ。


彼女の笑顔を見るのが。
彼女の声を聴くのが。
彼女の瞳が輝くのが。


彼女の全てが、楽しかったはずだったなぁ。




もう一度苦笑して、私は煙草の箱に手を伸ばしました。
中を見ると、空っぽでした。
ああ、確か帰宅した頃には3分の2はあったはずなのに。
煙草、吸い過ぎだよ・・・


椅子から身体を引き剥がすように、私は立ち上がりました。
いつも着ているコートに袖を通し、財布をポケットに突っ込んで。
いつも着けている指輪をその時していったかどうかは憶えていません。
そして、私は、煙草を買いに出かけました。


新年の空気。
なんてことは思うはずもなく。
ただ、一つだけ。


寒いな、と。


新年が明けて午前2時を過ぎたこの時刻、自動販売機は当然動いていないので、私はファミリーマートに向かいました。
もう、彼女がいないファミリーマートに向かいました。


別に、何も思いませんでしたけれど。




「いらっしゃいませ! あけましておめでとうございます!」
レジの中から、店長。バイトさんは1人だけ。よく見る顔の男性。
お客さんは誰もいなくて。この時期この時刻だから、いるはずはないのだけれど。
ああ、年が明けていたんだった、と、私は店長に少し会釈をして、雑誌のコーナーを素通りし、飲み物を取って、ゼリーを取って、すぐにレジに向かいました。いつもよりもずっと短い時間で、買い物は済みそうでした。


レジに行くと、店長がにこやかに笑いかけてくれました。去年は本当によくここに来ていたので、今年もよろしく、という感じで。
またちょっと会釈して、
「あ、セーラム・ピアニッシモをお願いします」
「はい。お一つですか?」
「はい」
後ろの棚から緑と白の箱を取って、バーコードを読み込んで。


そこで、店長の手が止まりました。


「あ・・・」
店長が、つぶやいて。
私を、しげしげとながめて。


「もしかして・・・」


店長がその場でしゃがんで、レジの下の棚から、何か袋を取り出してきました。
そして、それをレジに置いて。




砕け散った「希望」の欠片。




「あの・・・ この前、バイトの女の子のことをお訊きになりましたよね」
「は、はい・・・」
「その子が・・・ 多分、お客様のお忘れ物だ、ということで、これを・・・」
何の変哲もない、安っぽい取っ手がついた小さな紙袋。それを、店長が私の方に押しやって。




砕け散った「希望」の欠片。
それは、まだキラキラと微かな銀色の光をきらめかせて。




「・・・え? 私の・・・ ですか?」
ファミマに忘れ物をした憶えはありません。私は、当然訊き直して。
でも、その声は、少しだけ震えていました。
それだけは、確実にわかりました。


「ええ・・・ 失礼ですが、眼鏡をかけていて、Aラインの紺色のトレンチ・コートを着ていて、少々大柄で」
そこで店長は少し口を抑えました。
それでも、先を続けて。
「髪は黒くて、よく当店へおいでになっている男性で・・・」
店長は、そこで、レジの煙草を手に取りました。
「煙草は、必ずセーラム・ピアニッシモをお求めになる、という方でしたので」




砕け散った「希望」の欠片。
それは、まだキラキラと微かな銀色の光をきらめかせて。
心を身体を傷つけても、その輝きはなお残っていて。




「恐らくは、お客様のことかと・・・ お心当たりはございませんか?」
「・・・あ、もしかしたら」
とっさに出たのは、でまかせの言葉。
最後に、本当に最後に、一筋の光が見えたその先へと。
まるで蜘蛛の糸にすがるかのように。
私は無我夢中でうなずいて。
「あ、ありがとうございます」
「よかったです。先日は私が忘れてしまっていて・・・ 遅くなりまして、本当に申し訳ございません」
「あ、いえいえ」
そう言いながら、よく分からなかったけれど、お金を支払って。
「ありがとうございました!」
店長の嬉しそうな声を背に、私はファミリーマートを出ました。
袋を今すぐにでも開けたい衝動を必死でこらえながら。




砕け散った「希望」の欠片。
それは、まだキラキラと微かな銀色の光をきらめかせて。
心を身体を傷つけても、その輝きはなお残っていて。
そして、それは微かに夜を照らす星のように。




家に帰って。
コートを脱いで。
財布を置いて。
ビニール袋をベッドの上に放り投げて。


私は、紙袋を開けました。




中には、深い紫色の包装紙とピンク色のリボンでラッピングされた、手のひらに載るほどの小さな箱。
そして、その奥に、もう一つ。




メモ用紙が一枚。


細くて可愛らしい字。
黒いペンで。


そこには、女性の名前。
そして。


数字の羅列。


最初に「44」。
数字と数字の間がハイフンでつながれた、数字の羅列。






私の心臓が、一瞬、確かに止まりました。




「44」。
それは、国際電話をかける時の、イギリスの国番号でした。






To Be Continued