さまざまな人の思いが交錯する街、新宿。
 その評には、ひとつ間違いがある。
 『交錯』はしない。人々の思いは、ただすれ違うだけだ。

 この街を歩く人々は、他人の思いを一瞥して通り過ぎる。
 人々が皆、平行線で歩く街、新宿。
 その平行線に垂直に、一瞬の交わりを見つけたい、と私は思った。自らを人々と『交錯』させ、その思いの一端を感じ取りたい、と思った。
 以下は、そんな思いに捕らわれた私が、新宿という街で経験したことである。



新 宿 風 聞

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 東京の冬はそれなりに寒い。空気が乾燥し、吹く風はまさに身を切るという表現が当てはまる。
 それは、コマ劇場前広場が、「歌舞伎町ヤングスポット」なる信じられないネーミングセンスによって汚される前のこと。私はまだ学生服を着ていた。
 そこは、新宿コマ劇場前枯噴水。真正面にコマ劇場、その向かいに映画館、二辺をボーリング場に囲まれた場所。まだ『殴られ屋』もいなかった。クレープも売っていなかった。
 金曜日の夜になると、呼び込みやパフォーマー、通行人で込み合う、その人の流れは新宿を余りに感じさせる、そんな場所だった。

 いつからそこにその女性はいたのだろうか。私がコマ劇場を通り過ぎる時はいつも、彼女は枯噴水前に佇んでいた。
 年のころは多分二十歳前半。長い黒髪に、赤いコートをいつも着ていた。
 彼女は、誰かを待っているように、そこにずっと立っていた。まるでアスファルトの上に立つことを拒否するように、彼女は枯噴水のある、道路より20センチほど高いコンクリートのスペースに立っていた。
 視線を宙に彷徨わせ、時々小さくため息をつく。髪がその度にさらさらと微かに流れ、冴え切った夜空の色をした瞳が憂いにも似た光を湛えた。赤いコートの襟をしっかりと合わせて、胸の前で組んだ手を崩さなかった。
 受験期の欲求不満を解消しに、私はその頃よく歌舞伎町を友人たちとふらついていた。コマ劇場で、いつしか私の視線は彼女を探すようになっていた。

 今日のカバンは少し重い。
 私は、放課後友人の誘いを断って、My Cityのトイレに入る。カバンの中から、ジャケットと、学校では禁止されていた紺色のダッフルコートを取り出す。
 白いスラックスを履き、グレーのジャケットの襟を整える。コートを着れば、普段から老けて見えている私はどう考えても高校生には見えなかった。
 煙草をジャケットのポケットに入れ、My City前のコイン・ロッカーにカバンを入れる。眼鏡を、そっと磨いた。

 ゲームセンターで時間を潰すうちに、煙草はもう二箱目に入っていた。幾らニコチン・タール1rのフロンティア・ライトとは言っても、これだけ喫っていると、かなり口の中が気持ち悪くなってくる。
 麻雀の調子は実に好調で、もう二台クリアしていた。
 時計を見る。九時半。
 私は麻雀を途中に立ち上がった。

 風が少し強い。
 私はコートの襟を立て、コマ劇場を目指した。歌舞伎町一番街を過ぎ、ゲイ・バーの呼び込みを適当にあしらって、歩を進める。
 向こうの方に、枯噴水が見えてきた。そして、赤いコート。劇場の前を通り過ぎるたくさんの人波の中、彼女はただそこに立ち尽くしていた。
 今日は、通り過ぎずに、立ち止まった。
 背中までの長い黒髪に、大きな瞳。それが、私の瞳と一瞬すれ違った。双眸にちらつく光が、ほんの微かに、けれども確かに私を見て動いた。
 声は、案外と自然に出た。
 「・・・いつも、ここにいますよね」

 彼女は、にこりともせずに、きっちりと口紅を引いた唇を開いてくれた。
 「何か?」
 「風邪、引いてしまいませんか?」
 「いえ、大丈夫です」
 初めて聴く声は、女性にしては幾分低かったかもしれない。ただ、落ち着いた声、という表現もやや当てはまらない、微妙に揺れる声だった。
 こんなところに立っているのだから、ナンパされることも多いだろう。私のことも、そんな風に思っていたようだった。
 脇を通り過ぎた若いカップルが怪訝そうに私と赤いコートの女を一瞥する。ここは新宿という街にある歌舞伎町、男女の出会いと別れはいやになるほど幾度となく繰り返されている。
 彼女の口紅はただひたすら赤かったけれども、私の望むものはそれではなかった。

 私はポケットから煙草を取り出して火を点けた。ジッポ・ライターは、その時吹き抜けた一陣の風にも消えることなく、肺の中で煙が思い切り駆け回った。
 彼女は今、私が買ってきたホット・コーヒーの缶を両手で持っている。彼女はそれを、眉一筋動かさずに受け取ったのだった。
 それは、彼女がずっと崩さなかった胸の前の両手を動かすことが出来た瞬間であって、私はそれに快哉を憶えた。それを隠すために、煙草に火を点けたのだった。
 そのまま、何を言う訳でもなく、私は彼女の横に居座った。
 そっと、彼女を眺める。
 少なくとも、歌舞伎町で商売している女ではなかった。こんな時間に毎日外にいることができるほど彼女たちは暇ではない。身体の線は冬の厚いコートに遮られてよく分からなかったが、何より醸し出す雰囲気が違っていた。
 新宿の海の中に漂う人の心の波が、彼女にはなかった。
 彼女が一口、コーヒーを啜った。そして、缶の口に残った口紅を、彼女は右の親指で拭き取った。

 私は、手を擦る振りをしてちらりと時計を見た。針は10時45分を指していた。
 「・・・私に付き合うことはないけど?」
 彼女が言った。
 気付かれないように見たはずであったが、それを一発で看破された。思わず笑みが洩れそうになる。
 それには気付かず、彼女は前を見続けて、言い放つ。
 「何をしたいの? 私はずっとここで待っているから、気にしなくていいけど?」

 私は今でも何故そんなことを言ったのか分からないのだけれども。
 私は多分その時コマ劇場前広場の空気に溶け込みそうだったから、歌舞伎町の空気が一番流れ込んでくるそこの雰囲気に流されそうだったから、そんなことが言えたのかもしれない。
 私は、新宿歌舞伎町の中でも、ここが一番大好きだった。

 「いや、こっちはあなたがずっと待っていることが知りたいだけだから」

 その時、赤い口紅が、私を凝視した。

 「こと、って言った?」
 彼女の声のトーンが変わった。
 「待っていること、って」
 風が止み、瞬間煙草の煙が真上に昇った。だがすぐに冬のビル風は颶風となって彼女をよろめかせた・・・ 彼女がよろめいたのはその所為ではなかったのかもしれなかった。
 彼女は初めてアスファルトに足を降ろした。私の方が頭一つ分ほど高くなり、彼女は私を見上げることとなった。長い髪が見上げて揺れた。
 私を見上げた彼女は、大きな瞳を一度瞬かせた。
 「誰を待っている、と訊かなかったのはあなたが初めてよ」
 赤い唇はそっと三日月型にその形を変えた。



 わたしが待っているのはね・・・

 冬の中、白磁の肌は熱く燃え上がり、それと同じ熱を求める赤い唇は烈しく疼いていた。

 わたしの生まれたところは・・・ 海が傍にあった。知ってる? 海は生命の母、って言うんだってね。
 そこの冬の風はすごく冷たかった。 ・・・でも、ここの風はもっと冷たいのね。こんなに・・・ 酷いところなんて思わなかったよ。向こうにいた時はすごく憧れていたんだけど。

 求めるものも、望むものも、私からは得ることが出来ないことに彼女は気付かない。

 こんなにたくさんあるネオンとかの光は、何でわたしを照らしてくれないんだろうね。わたしはここにいるのに。
 ・・・それでね、何だか懐かしくなって。田舎の海が。
 だから、あそこで待ってたの。
 潮風が吹くのを。



 新宿には海がある。
 時折新聞の三面記事で報道されるように、水道の水はある時塩辛い。ある夜の都庁舎で響き渡る波の音の噂。風俗店がぎっしりと詰め込まれた風林会館ビルでは壁が塩によって腐食していることがある。新宿で行方不明になる人たちの中には、潮騒が、と呟いていなくなった者がいる、と私は以前サブナードで暮らすホームレスの男から聞いたことがある。
 嘘だと思うのであれば訊いてみて欲しい。新宿にその心の根を任せている人々に。

 「バーのマスターから聞いたの。新宿には海があるって」
 彼女の煙草はキャメルだった。赤い口紅はもう今は付いていない。薄明かりに揺れる煙は真っ直ぐに昇り、だが彼女の吐息がそれを乱した。
 「ずっと捜しているんだけど、まだ見つけられないの」
 私はそれに答えることなく煙草に火を点けた。やはりそれもその時の表情を隠すためだった。
 「・・・あなたは、あの時、私が待っているのを”こと”って言ったよね。人、とは言わなかったよね」
 外では冷たい風が吹いているに違いなかった。
 「あなたは、新宿の海がどこにあるか知ってる?」

 「・・・止めた方がいいと思う」
 「え?」
 「それは、そんなにやさしくないし」
 「それでもいいの。教えて」
 「それに、あなたには多分見ることは出来ないし」
 「・・・どうして?」
 私はため息をついた。
 
 「もう、新宿を出るんでしょ?」
 「・・・」
 彼女は何も答えなかった。

 新宿の海は、人の思いが創り出した海が街で息衝き、ついに現実に存在するようになったものなのかもしれない。人の様々な慟哭、嬌声、憤怒、歓喜、それらが長い時間をかけて漂い、現実に潮騒を奏でるようになったものなのかもしれない。
 その場所で生きる人の強い思いは、やがてその場所に深く根付いて生きるようになることがあるから。
 新宿は今日も人々の思いを吸い込んで息衝いている。溢れ返る思いは、新宿を新宿たらしめる。
 多分、新宿という街に、新宿という思いが重なって、新宿という街があるのだった。

 彼女も、この街から出て行く。
 夢破れ、負け犬となってここから逃げる。そんなことは新宿ではよくあることだった。

 翌朝、彼女は赤いコートを着て新宿駅へ歩いていった。
 「・・・ありがとう」
 たった一言しか残さなかった、コマ劇場の前。

 私は朝の清冽な空気に包まれて空を見上げた。
 ゴミをあさるカラスが騒々しくて、もはや思いに耽る場所ではない。けれども、相変わらず風は吹く。
 三方をビルに囲まれたこの広場は、やはり人々の思いが一番集まる場所だった。それに惹かれて、彼女もここで待ち続けていたのかもしれなかった。

 煙草に火を点けて、私はようやくコインロッカーの服を思い出したのだった。



 私が新宿という街で経験した、これはほんの瑣末な出来事である。



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