さまざまな人の思いが交錯する街、新宿。 その評には、ひとつ間違いがある。 『交錯』はしない。人々の思いは、ただすれ違うだけだ。 この街を歩く人々は、他人の思いを一瞥して通り過ぎる。 人々が皆、平行線で歩く街、新宿。 その平行線に垂直に、一瞬の交わりを見つけたい、と私は思った。自らを人々と『交錯』させ、その思いの一端を感じ取りたい、と思った。 以下は、そんな思いに捕らわれた私が、新宿という街で経験したことである。 |
新宿駅東口駅前広場には、区指定文化財の馬水槽がある。よく清涼飲料水のキャンペーンなどが行われる新宿ステーションスクエアのすぐ隣だ。 その広場に地下から階段を昇って出ると、真正面に、真っ先に目に入るのは、アルタ・ヴィジョン。 それは、様々な映像を映す。 人の思いさえも。 |
大学の後期テストも終わった、しばしの休息の時。まさに、新宿西口地下街問題が論議をかもしている、その時だった。 新宿西口地下街はその日もごった返していた。独特のすえた臭い。何日間も身体を洗っていないせいでこのような体臭が出てくる。彼らの生活臭だ。 ダンボール製の家を横目に、私は小田急から京王に歩いていく。量り売りの紅茶を求めて回って久しい。なかなか、これは、という葉が見つからないのだ。 左手にホームレスが集まり、小さな集会が開かれていた。青いビニールシートが敷かれて、ボランティアの人々・・・ それは皮肉なことに主に外国人であったのだが、彼らと、彼らを取材するテレビカメラが数台。彼らは、青島都知事に対する批判を声高に叫ぶ。見回すとあちこちに不器用な抗議文が貼り出されていた。 しかし私は、気勢を上げる彼らのすぐ横で、ダンボールの敷物にただぼおっとして座っている男たちを、同時に見たのだった。 その視界の隅に、彼はいた。 一見ホームレスの集まる場所に座っているが、私はすぐに思った。 彼はホームレスではない。 垣間見える若さ、ジャンパーのくたびれ具合、ダンボールの使い方、髪に染み付いた脂、それら全てが、少なくとも私が知っている、ここ新宿のホームレスとは違っていた。 だが彼は、片方の膝を抱え、少し俯き加減に、その俯く確度は完璧な角度と力の入れ具合を以て完成されていたのだった。 彼がふと、顔を上げる。 その瞳が、私を見る。 新宿のホームレスを見慣れている私の背筋に、戦慄が走った。 それは私を吸い込んでしまいそうな瞳だった。全てをかなぐり捨てて逃げ出したい思いが私を捉えた。 彼の瞳の奥にたゆたうそれに魅入られたら助からない。 そう、彼の目の絶望は、それほど深かった。 傾ぎかけた身体を、最後の精神力が支えた。 ここは新宿だった。絶望と後悔とが渦巻く街であった。それを私は見てきた。自らを人々と『交錯』させて、様々な思いを掴んできた。 新宿をずっと歩いてきたという矜持、この街を見続けてきたというプライドが、私の視線を彼に向けさせた。 真っ直ぐに彼を見返し、軽く、頭を下げる。 そして、それでも耐えられなくなる前に、私はそこを立ち去った。 |
2、3日経っただろうか、私は午後5時頃から寒風吹きすさぶ新宿東口駅前広場で友人を待っていた。だが、アルタ・ヴィジョンの映像は2周目に入り、その頃吸っていたフィリップ・モリスはもう最後の1本になっていた。私はトレンチ・コートの襟を合わせ、隣でこの寒い中コートも着ずに短いスカートを履き、全く訳の分からないことで大笑いして姦しい何処かの女子高生たちに一瞥をくれ、小さくため息をついた。 北にアルタ、南に駅ビルMy City、東にさくらやと三方をビルに囲まれたこの場所は風が起きやすい。煙草の火が瞬間強く光り、私は思わず目を閉じる。 開くと、目の前に女の子がいた。 電車の中でよく見かける、女子高生定番のコート、バーバリー・チェックのマフラーにルーズソックス。栗色の髪は真中で分けられ、マフラーを隠してコートまで流れていた。 きゅっ、と引き結ばれた淡く染まる唇。 そして、勝気そうな、眼前の私を射抜いたその瞳。 その子は、私に一枚の紙を差し出した。 「すいません。ご協力お願いします。」 声が、寒さのためか少し震えていた。 明らかに手作りと分かる『探し人』と書かれたその紙に、印刷された写真。 「わたし、人を捜しているんです」 それを受け取った私にひとつぺこりと頭を下げ、彼女は立ち去る。その背中に、私は声をかけた。 「警察は? これは自分で作ったようですけど」 「やめてください!」 振り向いた女の子が強く光った。それほどの剣幕だった。 ギラリ、という形容が相応しい、強い瞳。 彼女は何か言おうとして息を吸い込み、そのままゆっくりと顔を下げていった。 「・・・あ、あの、ちょっと事情があって、警察の方には言ってないんです」 俯いても、声はしっかりと通って私の耳に届いた。 「お願いします。ほんとに、ご協力をお願いします!」 「・・・わかりました」 はぁ、と洩らした安堵のため息が、彼女の年齢を垣間見させた。 「ありがとうございます」 去り際に私に投げかけた笑顔は、とてもきれいなそれだった。 「悪い。遅れた」 きびきびした口調で先程から私が待っていた友人が詫びる。 私は『探し人』と書かれた紙をしまい、彼に笑いかけた。 その紙に印刷されている、20代後半から30代前半のサラリーマンらしくスーツを着た上半身の写真は、新宿西口地下街にいた、あの男だった。 |
翌日、私は再び午後5時頃に新宿東口駅前広場にやってきた。階段を昇り切った瞬間、風がコートをなびかせた。 アルタ・ヴィジョンはいつものようにセリエAのゴールシーンをやっていた。 少しの逡巡もなく、私は彼女を見つけた。制服姿にコート、マフラーの女の子。 また今日も、胸に何枚かの紙を抱えて佇んでいる。こんなに寒い中、毎日ここに来ては配っているのだろうか。 配っても見向きもせずに通り過ぎていく人々の背中を、彼女はきっと見詰めている。 あの、強い瞳で。 私は、彼女に近づいた。 「すいません。その紙をもう一枚くださいませんか?」 声を掛けても掛けられることはなかったのだろう、彼女はびっくりして私を見た。 風が彼女の髪を巻き上げる。北国のきめ細かい白磁の肌が眩しい。 彼女は、不思議そうに私を見詰めた。ちょっと見上げるような、その顎のラインが印象的だった。 「昨日貰ったんですけど、なくしてしまって」 「・・・はい!」 ほんとうに嬉しそうに輝く笑顔は望外であった。それは今まで見たことのない笑顔だった。 「寒いから、身体に気をつけて」 頷いて、彼女はまた紙を配り始める。 私はしばらく彼女を眺めていた。 そして、その紙を持って、西口へと足を運んだ。 |
彼はそこにいた。 以前見かけたときから、いや生まれた時からそうしているように、彼は俯いていた。 私は意識して足音を立てる。雑踏は激しく、そんな音はかき消されてしまうはずであったが・・・ 彼が顔を上げ、すぐに私の方を向いた。 そして、初めて微笑んだ。 きっと、彼はここに来る前は笑顔の似合う人だったであろう。寒さのせいもあってか強張った微笑みであったが、その奥底に柔らかい流れが見えたのだった。 「・・・また、来ると思ってたよ」 それが、第一声だった。 「・・・そうですか」 理由は訊かなかったが、それはお互い分かっていた。私は新宿という街で交錯を求め、彼はそれに気付いていたのだった。 周りを歩く人々やホームレスが怪訝そうに見る中、私は彼の前にしゃがみこんだ。ポケットの中から、あの紙を取り出して、男に見せる。 今度の微笑みは、少しうまくなっていた。 「アヤコ・・・」 「アヤコさんと言うんですか? ・・・寒い中、必死でした」 そのまま彼は紙の一点を見詰め続け、私はその裏面を眺めていた。ずっとこうして二人の一生が終わってしまうかのような時間だった。 それを、拡声器のハウリング音が破った。 近くで再び、ホームレスの集会が始まるのだ。私はそれを機に立ち上がった。 「もう、何も言わないのかい?」 彼は訊く。瞳が揺れた。紙を見て泣けてきたのか、何かに怯えているのか、一人では淋しいのか、どうにでも取れるような瞳の揺れ方だった。 「何を言うんです?」 その答に彼は弱々しく笑った。今にもくず折れそうな、そんな笑いだった。 私は、彼女の笑顔を思い出す。 余りにも対極にある、二人の笑顔。 それに、怒りすら憶えるほどの。 こんな彼に心を砕いている彼女がいるのに、何故彼はこんなところにいるのか。 私は踵を返す。 これ以上、彼の顔を見ていたくなかった。 それでも、彼の次の言葉は予想できた。 「ま、待ってくれ・・・」 待ちたくなかった。 振り返りたくなかった。 瞬間、強い瞳の光が記憶から甦る。 引き戻された。 彼にではなく、彼女に。 私は、ゆっくりと振り向いた。 彼は、姿勢を崩していた。完璧なまでに堂に入っていた俯き加減が、今完全に消え去った。 「何か・・・?」 私は、せめてこれ以上ないほどに冷たく男を見る。 それでも、彼は、訊いてきた。 「あんた、新宿の人間だね・・・?」 |
『逃げるしかないような絶望を、悔やんでも悔やみきれない後悔を、あんたは味わったことがあるかい? 何で自分はあの時そうしていなかったんだろう、と考えるしかなくなるような・・・ 何を代えても真っ先にそこに戻りたいと思うような・・・ 悔しいんだ。何でオレはあの時あんなことをしてしまったんだ? 今でも信じられない・・・ けど、バカみたいな選択をしてしまった。 あの時に、戻りたいんだ。 ・・・けど、現実はそうじゃないよな。絶対に戻れないんだもんな。 だから・・・ せめて、夢が見たい』 |
怒りが再び、静かに爆発した。 瞬間、私は彼女の瞳の呪縛から逃れた。 「・・・新宿に、夢を見ることができる場所があります。そこへ、行きなさい」 彼の顔が、輝いた。 「ほ、ほんとか?」 「ええ、真夜中に、そこへ行くんです。 ・・・多分、夢が見れます」 「どこだ? どこにあるんだ? それは」 勝ち誇った、歪んだ優越感にひたってその場所の名前を言おうとしたその時。 ”やめてください!” 心臓が止まるような言葉が聞こえた。 ・・・いや、実際には聞こえなかった。 私は目を閉じた。 目を開くと、眼前に女の子がいた・・・ ような気がした。 眼前には私を必死に見詰めている男しかいなかった。 「ど、どこだ?」 「・・・そこに行って夢を見ると、人は死ぬかもしれません」 男は一瞬俯いた。けれども、以前のような完璧な俯きではなかった。 怒りはざわざわと私を揺らす。 「それでもいいと言うなら、私は止めませんが」 彼は、黙ったままだった。多分、彼は紙を見ていた。 寒い寒いこの新宿で、一人の女の子が一人の男を捜している、それはよくあることだった。様々なすれ違いが、この街を、色はどうあれ彩っている。それは確かなことだった。 消えやらぬ胸のしこりを抱えたまま、私は再び彼に背を向けた。 「・・・そこでは、『視る』ことが出来ます。 ・・・それが、ヒントです」 人の背中に眼は付いておらず、故に私は彼がどんな表情で私を見送ったのかは知らないのだった。 |
新宿駅東口駅前広場、新宿ステーションスクエアから北を見るとそれはある。だが、『視る』ことは、それが午後10時から11時の間に消えた後、さらに日が変わった真夜中、終電後にしか出来ない。 巨大な映像を映し出すアルタ・ヴィジョン。 多くの人々がそれを見、またそれは多くの人々を見てきた。人々は様々な思いを抱いてそれを見、またそれは人々が抱く様々な思いを見てきた。 そしていつしか、それは人々の思いを映し出すようになったことを、新宿に心の根を任せる人は知っている。真夜中、放映が終わって、最後の電車が新宿を去ったその後、それは見詰める人の思いを映す。 だが、新宿の人は、それを噂として知っているだけで、決して『視』ようとはしないのだった。 それは、人々の強い思いを映し出す。そして、強い思いとは、その人が持つ強烈な望みに他ならなかった。 人が痛切な痛みを以て思い出す後悔、身を切り刻む信じられないほどの絶望それ自体に打ちひしがれた人は、その痛みを思い出すことは出来ない。 ・・・きっと、それから逃げられる自分を、それを避けることが出来た自分を、都合のいいように描き出す。 それが、その人の望みだから。 そして、それは別の名を夢という。 アルタ・ヴィジョンは夢を映し出す。 甘美な思いに浸り続けた人は、夢に取り憑かれてしまった人は、どうなるのか・・・ 歌舞伎町に噂がある。 新宿駅東口駅前広場に植えられている木は、実はある歌舞伎町のホステスがそこに座り続けて思い出に浸り、ついにはそこに根付いてしまったものだ、と。それは昼間よりも夜に芽吹き、風もないのに葉をさやさやと鳴らす、と。 アルタ・ヴィジョンに思いを投げかける人は、全てを捨てた人たちなのだった。 |
午後11時。既にアルタ・ヴィジョンは消えている。だが、彼はまだそこには来ていなかった。 帰途を急ぐ人々の中、私は一人佇む。 その視界を、コートとマフラーが通り過ぎた。 あの女の子が、歌舞伎町の方から歩いてきた。淋しげに見えるのは、きっと寒風の中にいるからだけではなかった。 「・・・あ」 目が合って、彼女が反応してくれたことに私は心中快哉を叫んだ。 「どうも・・・」 彼女が軽く会釈をする。ちょうど風がその時凪いで、彼女が真っ直ぐ私を見ていることがよく見て取れた。 たった2日しか彼女を見ていなかったが、いつも彼女は私を真っ直ぐ見ていた。そして、それはほんとうは私に向けられるべき視線ではなかったにしろ、私はそれが、欲しかった。 「あの・・・ 何か?」 私は煙草で一息入れた後、出来るだけそっと微笑んだ。そうしながら、彼女の強い瞳が現れるのを、待った。 風は吹く。二人の間にも容赦なく吹き付ける。煙草の煙が見えなくなる。 やがて、彼女はひときわ強い風に、前髪を押さえて瞳を閉じた。 「・・・何か、知ってるのね」 開けられた瞳は危険なまでに鋭く、私の背を快感にも似た震えが駆け上った。 |
彼女が制服を着ているのでバーには入れない。私は歌舞伎町コマ劇場傍のマクドナルドに彼女を連れて入った。その間、彼女はずっと黙ったままだった。 「さあ、条件は何?」 トレイを置いて座るなり彼女は訊いた。余りの性急さに私は苦笑しかけ、しかし私は彼女の瞳を見て凍りついた。 恐怖にも似た感覚だった。 「・・・条件?」 「とぼけないで。彼の居場所を知ってるんでしょ? お金? それとも身体?」 私が望むものが今現実に手に入る。 きっと、彼女は抱かれている時、ずっとその瞳で私を見据えるだろう。 そして、その強い、強い輝きは、私に抱かれたからといって消えることはないだろう。 それで、よいはずだった。 一時でも欲しいものが手に入り、彼女は傷つくことはない。男を見付け、また元の鞘に収まる。 それで、よいはずだった。 「・・・あなたの彼氏ですか、あの人は」 「そうよ」 よどみない答。 「・・・付き合ってるのを親に反対されたとか?」 「・・・なんで分かったの」 「警察に知らせちゃいけないんでしょ? 何か事情があるんだから。あとは予想」 「ふうん」 頷いていても、彼女はそんな雑談に興味はなさそうだった。烏龍茶のストローを加えながら、私の言葉を待っている。 「・・・あのパンフ、どこで配ってるの?」 それから5分くらい私は当たり障りのない質問を続けた。その全てに彼女は直ちに答え、自然と沈黙の時間が長くなっていくのだった。 強い瞳の光は、その間ずっと私を射続けていた。 もう、耐えられない。 ひときわ長い沈黙の後。 私は口を開いた。いや、開かされた。 「・・・あなたは、彼と付き合ったのを後悔したことがある?」 初めて、彼女が少しだけ目を瞠った。 「後悔?」 「そう。彼と付き合ってて、後悔したこと」 「あるわ」 そう言って、彼女は最後の烏龍茶をすすった。ストローの音が妙に響いた。 「そんなの、後悔なんていっぱいしてるよ。だって人間ってそうじゃない」 「・・・」 「だから何なの? 後悔しちゃいけないの? 後悔したって負けたわけじゃないんだから、別にいいじゃない」 何も言うことが出来ない自分を私は見た。 「今だって、寒い中パンフ配ったり・・・ ろくに勉強も出来やしない。そんで、何だか知んないけど訳分からない人にマックに連れ込まれるし・・・」 「・・・」 「だけど、そんなのにわたしは負けない。負けてなんかやらない」 彼女は、ナプキンで口元をぬぐった。 そして、私を真っ直ぐに見詰める。 「さあ、教えて。彼はどこにいるの?」 |
それから二人がどうなったかは私の知るところではない。会えたかどうか、どのような理由でこんなことになっていたのか、そんなことは私はどうでもいい。 あの時、欲しいものが手に入らなかった今、私は思う。 もしもあの時私がもう少しうまく話を進めて、彼の居場所をすぐに教えなかったら、彼女を一時でも手に入れることが出来ただろうか、と。 もしもあの時私が彼女に負けないほど、せめて彼女の瞳に耐えられるほどに強かったら、彼女を手に入れることが出来ただろうか、と。 もしもあの時私が彼女の瞳を真っ直ぐに見返すことが出来たなら、彼女の全てを手に入れることが出来ただろうか、と。 今、アルタ・ヴィジョンを見上げたくなる欲望を、私は必死で抑えている。 そしてきっと、彼女が視るアルタ・ヴィジョンには、現実になることしか映らないのだった。 |
私が新宿という街で経験した、これはほんの瑣末な出来事である。 |