さまざまな人の思いが交錯する街、新宿。
 その評には、ひとつ間違いがある。
 『交錯』はしない。人々の思いは、ただすれ違うだけだ。

 この街を歩く人々は、他人の思いを一瞥して通り過ぎる。
 人々が皆、平行線で歩く街、新宿。
 その平行線に垂直に、一瞬の交わりを見つけたい、と私は思った。自らを人々と『交錯』させ、その思いの一端を感じ取りたい、と思った。
 以下は、そんな思いに捕らわれた私が、新宿という街で経験したことである。



新 宿 風 聞

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 今年は夏が早く過ぎ去り、秋が急に深まっているような気がする。
 この分だと、冬も早く、そして例年よりも寒く厳しいのだろうか。

 関東の冬は、風が冴える。
 雪は、それほど降らないのであるが。

 私は、外に出て空を見上げていた。
 まだ、秋の始まり。雪が降るわけはないのだけれど。

 今年の冬は早く、そして寒そうな気がする。
 雪も、年内にしっかりと降ってくるのかもしれない。

 そして、新宿にも、雪は降る。
 新宿の、雪が降る。

 私は、空を見上げながら、遠い記憶の彼方の出来事を思い出していた。



 高校2年の晩秋、終電を逃して新宿で夜を明かさなくてはならなくなった時、ふと立ち寄った歌舞伎町2丁目のバーでのことだった。そこはキャバレー風になっていて、希望すれば女性が横につくようになっていた。
 一人で飲むからいい、と断った私のそばに一人の女性が腰掛け、囁いた。
 それが、始まりだった。
 「ごめん。今日明日にも指名取らないとあたしクビになっちゃうの。お願い、指名して!」

 その晩は幸いにも財布は暖かかったので彼女と飲んだ。
 二十歳くらいだったか、セミロングの髪は店内の薄暗さにはっきりとは色がわからなかった。黒目がちで声が少し鼻に掛かっていて、生粋の日本人のはずなのだが、言葉や動作にほんのりと中国の香りがした。名前は翠鈴、という答に、なるほど、と思った。

 一時間ほど話しただろうか、私は彼女の芸術方面の造詣に目を瞠ることとなった。ゴシック、ルネサンス、バロック、ロマンからロココそして印象派まで、あらゆる時代に詳しかった。私は感服するとともに、彼女が指名を取れなかった理由を見つけた。ホステスは、自分が話すよりも相手の話を引き出して気持ちよく話してもらうことが重要であるのに、彼女はそれができていないのだった。
 午前5時ころになって、私は席を立つ。ロッカーから制服とかばんを取り出して、学校に行かなければならなかった。
 「じゃ、ねえさん」
 自分の歳を18と言っていたこともあって、私は彼女をそう呼んでいた。
 「もう帰るよ。今晩は楽しかった」
 「・・・ありがとね。助かったわ」
 彼女は上目遣いに私に微笑みかけた。そして、自分の言葉でまた明日からのことを思い出したか、ほんの小さなため息をついたのだった。
 やれやれ、と心の内で呟いた私を、もう一人の私が見つけた。
 片付けを始めた彼女の耳に、囁きかけた。
 「・・・もっと聞き上手になれば指名取れるんじゃない?」
 彼女はちょっとむくれたが、真顔になって頷く。
 「マスターにもそう言われるの・・・ そんなに、下手かな」
 「俺はそういうの好きだけどね。ずいぶん物知りだし」
 「ほんと? これ祥司から聞いたんだけど・・・ あ」
 あわてて口を押さえる彼女は、どう考えても私よりも年下に見えた。客の前で他の男の名前を洩らすとは、ホステス失格ではないか。
 「もうひとつ、余計なことも言わないようにねぇ」
 今度は本当に彼女はふくれた。
 「さて」
 時計を見る。友人がオープンのバイトをしているマックで、レジをちょっとごまかしてもらっての朝食となりそうだった。
 「じゃ・・・ また、来るよ」
 「・・・は、はい!」



 満開の笑顔は、今でも私の記憶に残っている。

 そのころのことを思い出すと苦笑するしかない。約束してしまった手前行かなければならず、万単位で吹き飛ぶ金を稼ぐため、即金で入る引越しのバイトを空き時間にどうにかこなす生活が続いた。かなりの放課後がそれで潰れた。年齢詐称は案外簡単にできるものだ、とはこの時分かったことだった。
 高校の勉強と引越しの仕事の両立。今考えると、結構充実していた時期だった。

 夜風が信じられないほど急激に秋の翳りを見せ、私の記憶は否応なく、高校2年のその時に戻っていく。
 私は、ほとんど使うことのない手帳を取り出した。
 もし手帳を見られても、ここに気付くことはないだろう。手帳と一緒に持ち歩いている愛用の0.3ミリのシャープペンシルの胴には、一枚の紙切れが隠されているはずだった。
 そこに書いてある電話番号を押す。
 すぐに応答があり、心臓の鼓動が一回だけ大きく響いた。
 「・・・なった電話番号は、現在使われておりません」
 私は、煙草に火を点けた。



 5、6回はその店を訪れたであろうか。いつものように一緒に飲んでいると、翠鈴はいったん席をはずし、マスターに何事か話し掛けた。
 そして戻ってくると、にっこりと笑って私の手を引いた。
 「ね、ちょっと外に出よ? 見せたいところがあるの」
 マスターを見ると、彼も軽く頷いた。
 「じゃあ、翠鈴をよろしくお願いしますね」
 それでも途惑っていた私を、翠鈴がせかした。
 「ほら、早く」
 
 関東の冬特有の、冴えた北風が二人に吹きつける。
 「どこ行くの?」
 「もう少し」
 そう言って、翠鈴は、店を出るときに引っ掛けたワインレッドのコートの襟をかき合わせた。

 立ち止まったのは、これも一軒のバーであった。しかし、彼女が働いている店とは違い、重厚な扉の奥からは何かのメロディが洩れ聞こえてきていた。
 彼女は重い扉を開ける。
 中の空気が、冷え切った身体に吹き付けた。熱気と酒精に包まれ、一瞬震えが疾った。
 「あら、翠鈴ちゃん、久しぶりね」
 この店の女主人であろう三十路過ぎの女が、彼女を見て手を叩いた。
 まあまあな広さの店に、客の入りは六・七分くらい。奥の方のステージに、ピアノとキーボード、そしてマイクスタンドがある。
 そのピアノを、一人の男が演奏していた。聞き憶えのある曲は、サティの「あなたが欲しい」だっただろうか。入ってきた私たちにも気付かず、半分目を閉じて弾いている。
 翠鈴が手招きして、二人は椅子に座る。
 「彼・・・ 祥司よ」
 そのまま彼女は、曲が終わるまでずっとずっと彼のことを見詰め続けていた。

 弾き終わって顔を上げた男・・・祥司が、すぐに翠鈴の視線に引き込まれるようにこちらを向いたことが、印象的だった。

 祥司は立ち上がって、翠鈴に向かってちょっと手を上げた。20代後半に見えたのは、無精ひげと着古したTシャツのせいだったろうか。
 翠鈴が立ち上がってそちらへ歩いていく。一瞬迷ったが、私はひとつため息をついて、少し離れてついていった。
 翠鈴が彼に笑顔を投げかける。彼は薄く微笑みを返し、ついてきた私に怪訝そうな瞳を向けた。
 「彼は?」
 穏やかな、それが彼の声だった。

 背に、何かが疾った。

 「あたしのお客さんよ。よく来てくれるの」
 「それはそれは」
 祥司は薄く微笑みながら私にお辞儀をした。
 「どうも、翠鈴をごひいきにしてくださって。 ・・・何か、一曲お礼にしようか?」
 最後は翠鈴に向けた言葉。
 「あたしもそう思ってここに来たの」
 祥司はまた穏やかに微笑むと、顔を上げた。
 「ママ、久しぶりに、あのナンバーでいいかな?」
 彼がキーボードに歩み寄る。翠鈴も、私に一つ手を振ると、マイクスタンドの前に立つ。徐々に、拍手が沸き起こる。
 私が席についたのを確かめて、祥司が指を動かした。
 「"愛の歌"」
 キーボードから、ヴァイオリンの音が響き渡った。G線の音域からそれは高まっていき、翠鈴が大きく息を吸い込んだ。

 スローなバラードは、彼が作ったもののようだった。先を夢見る男を、女が愛して愛してついていき、そしておいてきぼりにされ、それでもついていこうとする、そんな曲だったような気がする。女の叫びは降りしきる雪にかき消され、それでも雪の中に埋もれたもの・・・ 男を捜し続ける、そんな曲だったような気がする。
 翠鈴の詰まり気味の声が切なく、終わりなく積もりゆく雪のように、愛する人を求め続けた。そして最後に、翠鈴は雪に飲まれて消えてしまいそうだった。
 男は・・・

 拍手はまばらに、しかし力強くステージの上の二人を称えた。翠鈴が大きくお辞儀をし、祥司もそっと頭を下げた。
 曲は終わり、夢は醒めたのだった。客は皆一様に目を潤ませている。ため息がこぼれ出て、気だるい現実に戻るには少し勇気が要ることだったろう。
 祥司が、私に今一度微笑みかけた。私も例に洩れず、小さく息をついた。それを見て、彼は笑みを深くする。
 しかし彼は、その吐息の意味に気付いていただろうか。
 拍手を贈る。贈りながら、私は彼の視線を受けて背筋に疾ったものの正体をおぼろげながら悟ったのだった。
 その穏やかな彼の目を見て、感じた戦慄を。

 男は、どこへ行ってしまったのか。

 この曲を作った人は、どこに行くのか。

 「・・・いつ聴いても、こわい曲だわ」
 女主人が呟いたのを私は聞き逃さなかった。
 祥司が翠鈴の手を取って、ステージから降りてくる。彼のその胸に、銀色のロケットが揺れていた。



 その年の冬は例年になく寒かった。風はいよいよ冴え、気温はどんどん下がっていく。 それでも、まだ雪は降っていなかった。
 もう何回目の夜だったか、翠鈴の店に行き、二人で飲んでいる。
 彼女は隅の方のテーブルを好んだ。そしていつも一杯目は雪国を飲んでいた。白い水面を黄色い灯りにかざして揺らしながら、彼女はこう言った。
 「祥司はね、あたしを拾ってくれたのよ・・・ 二年前かしら、冬の雪の中路地で小さくうずくまっていたあたしを・・・ ってのは言い過ぎかしら?」
 笑いながらその瞳は回想の色を呈していた。
 少し考えて、彼女は手に持つグラスを揺らす。
 「この雪国、あたしはそんなようなところから来たの。いろんなことがあったわ。何も知らない田舎娘を騙そうと、たくさんの男たちがあたしの近くに寄ってきた。 ・・・それに疲れて、もう何度目か分からないほど勤め先を首になって、ぼろぼろだった」
 突然、翠鈴は私をじっと見詰めた。



 『ね、聖書の一節にあるよね。アダムとイヴは原罪を犯したって。
 "それゆえ、のろいは血を食いつくし、人は罪あるものとされる" ・・・確かイザヤ書だったかしら? その罪って、何だと思う?
 あたしは、その罪って、きっと、欲望だと思うの。
 お金が欲しい。他人より楽をしたい。いい暮らしがしたい。女が欲しい。車が欲しい。もっと、もっと・・・ きりのない欲望ばかり。それが、きっと神様が人間に与えた罰なんだって、あたしは新宿に来てそれがわかったわ。
 そして、人を好きになることも、きっと欲望なんだ。そのひとが欲しい。そのひとの全てを自分のものにしたい。そのひとを支配したい。これってきりのない欲望と一緒だよね』
 
 『でも、祥司と会ってから、少し考えが変わったみたい。
 祥司はね、あたしに静けさを与えてくれるの。祥司といると、心が穏やかになるの。辛いことも全部消えてしまうの。
 全然、お互いに欲望のままに求めたりしない。そんなことができるようになったの。
 祥司は、あたしを救ってくれたのよ。欲望のない純粋な気持ちを、教えてくれたの。ほんとうに静かな気持ちを、あたしに見せてくれたの』



 ここで翠鈴は、照れたように舌を出した。
 「なぁんだ。結局のろけになっちゃったね」
 その時の私の笑い顔は、きっと強張っていたはずだ。

 静穏と無は、よく似ている。
 それに、気付いていたから。



 私は今、空を見上げ続ける。
 彼は、いつから穏やかだったのだろうか。
 自分がどこに向かっていくのか、気付いていたのだろうか。

 雪は、まだまだ降ることはない。
 新宿の雪も、まだ時期は早い。



 年の瀬も押し迫ってきたころ、翠鈴の店に祥司が来た。ちょうど私と飲んでいた翠鈴は、迷うことなく祥司を席に招いた。彼の分厚い皮ジャンの下は、今日もTシャツだった。祥司は、私に穏やかな微笑みを見せて、ゆっくりと座る。
 その日の翠鈴は、二人の来客に少しはしゃぎすぎた。ほんとうに屈託なく翠鈴は笑い、それに隣で祥司が時折頷く。私が多少居心地の悪さを感じたとしても仕方がなかった。
 「でね、そしてねぇ?」
 「・・・いい加減飲み過ぎだよ。もうやめなって」
 ホステスとしての仕事が出来なくなる前に、私は翠鈴をなだめた。途端にふくれっつらをする彼女。それを、隣の祥司は静かに、微笑みながら見詰めている。
 「いいじゃんかぁ。久しぶりなんだし、3人で飲むの」
 「それにしたっていつもの倍は飲んでるよ? ほら、顔洗ってきなって」
 「むぅー」
 そうは言ったが、さすがに彼女も気付いたのだろう。それじゃ、失礼します、と言い残して、洗面所へ向かった。
 その危なっかしい歩き方を見て、視線を戻すと、そこに祥司がいた。
 彼の首に掛けられた銀色のロケットが、ふわりと揺れた。

 何も会話がなく、時間が過ぎる。
 ただひたすら穏やかに、祥司はそこに座っている。
 その時間は、私にとって恐怖だった。
 時間が静穏に流れていくことは、新宿ではありえないことなのだから。

 「・・・前聴いたあの歌、よかったですね」
 苦労して搾り出した言葉にも、彼は会釈でしか反応しない。
 「祥司さんが作ったんですか?」
 「・・・ええ」
 私は手にしたバカラのグラスの中の氷をカラリと揺らした。意味のない、行動だった。
 煙草に火を点け、しばらくくゆらせる。
 話題が見つからないことが、全ての元凶だったのかもしれない。
 「あの歌、何て言うか・・・ すごい迫力でした」
 「そうですか。それはありがとうございます」
 「翠鈴さんも、北の方から来たと言ってましたね。あの歌の中にある雪が降るような」
 私の頭の中で警鐘が鳴る。
 これ以上、この歌の話をしてはいけない。
 「そうですね。彼女を見て、雪を見て、あの曲を作ったんです」
 祥司が自分のグラスを持つ。
 グラスを干す姿は優美だった。
 「雪の中、一人佇む彼女がいたんです。ほんとうに純粋で、でも疲れきった」
 「・・・」
 「それを見て、あの曲を作りました・・・ だいぶ、前のことですが」
 「雪の中、追いかける彼女、ですか」
 薄く微笑って、彼はグラスを置いた。
 穏やかな、静かな・・・ 無に似たその心。
 やめろ。
 私の中で何かが叫んだ。
 けれども、口は自然に開く。まるでそれが運命だったかとでも言うように。
 「・・・男は、どこに行ったんでしょうね」

 一瞬、彼を見る。
 果てしない虚無感が、そこには広がっていた。
 決して吹くことのない風、決して波打つことのない海が、そこに広がっていた。
 それは、まるで全てを包み込んで消し去る雪の中にいるようだった。

 「お待たせ〜」
 翠鈴が戻ってきて、呪縛は解ける。
 「ねえねえ聞いて? 今ねぇ・・・」
 祥司が彼女の方を向く。その動きに、胸の銀色のロケットが大きく揺れたのだった。

 夢のような時間は過ぎ去って、現実の家に帰らなければならないのは必定。
 戸口まで、翠鈴と祥司は送ってくれた。
 ダッフル・コートを着込んで、私は店の扉を引き開ける。
 強烈な、身を切り刻むような冷たい風が吹き込んできた。
 「うひゃあ」
 翠鈴の悲鳴も、その時の私の耳には入らなかった。
 天から、一片の白い華。
 まさか。
 「うわぁ、雪だねぇ!」
 翠鈴の無邪気な声は、それが現実であったことを教えた。 ・・・そこにいた二人に。
 年内に雪が降るなど東京では珍しい。東京の雪は1月の下旬から2月に降る、それが例年だった。
 「道理で寒いはずだね」
 答えず、私はその雪を食い入るように見詰める。それは、どんな形をしているのか・・・
 一片が、大きい。
 牡丹雪だ。
 私は安堵のため息をついた。これは、新宿の雪では、ない。 ・・・まだ。
 私は振り返り、さよならの挨拶をしようとして。
 息を飲んだ。

 祥司の瞳は宙を彷徨い、その手は、胸の銀色のロケットをぎゅっと握りしめていたのだった。



 それから年を越して、私は翠鈴の店を訪れなかった。
 1月の実力テスト、そして2月の期末テストに備えて少しは勉強をしておかなければならなかった。
 そして何より、結末を知るのが怖かった。



 雪は、全てを包み込むという。全てを純白に染め、きれいに消し去ってしまうという。
 それは、どこに降る雪もそうなのだろう。降り積もる雪は視界を白く染め、音を吸い込み、世界を静寂に包み込む。
 後に広がるのは、静穏な世界。

 新宿にも、その雪は降る。その時は、さすがの新宿も、普段より喧騒が少なく、人々もどこかしら穏やかだ。
 けれど、新宿には、もう一つ、そこを無に包み込む雪が降る。それは新宿にだけしか降らない粉雪。
 それは毎年、確実に新宿を無に包み込む。雪の静寂、静穏、それとは異質の静けさをもたらす雪が降る。その時だけは、新宿の喧騒が、吸い込まれるように消えていく。

 無は、無を誘う。
 新宿の雪の中にかき消えていったものは多い。毎年、現実に敗れ空しさしか思わなくなった人が何人か、雪の夜に姿を消す。心折れ、身体が朽ちかけた者が、毎年必ずどこかに消える。そして、影も残らない。
 新宿の雪のもたらす無に溶け込んでしまった、新宿の人はみなそう考えるのだった。

 けれども、無しか残っていない人は。
 無は、有の象徴である現実では生きることが出来ない。無の存在は一瞬であり、いずれ、無に同化してかき消えるのが定めだった。
 全てが無にしか見えない人にとっては、現実の中にいるのはきっとこれ以上ない責め苦であるに違いない。
 だから、新宿の雪は、もしかしたら天使がもたらす純白の慈悲が満ち溢れた、魔法の粉であるのかもしれなかった。



 その年の2月、テストの準備に忙しい私は、どうにか来年の受験までに数学を身につけようと四苦八苦していた記憶がある。どうしても、確率・統計が解けない。
 はぁ、とため息をついて、私はテキストを閉じた。他人に言わせれば簡単らしいが、性に合わないのであろうか、基本的な問題すら時々間違う。
 諦めにも似た感情がよぎって、それを振り払おうと、外の空気を入れるためカーテンを開けた。
 一面に、真っ白い風景が広がった。

 雪が、降っていた。

 不吉な予感がして、あわてて窓を開ける。
 手を差し出す。

 一片が細かい。
 粉雪。

 私は、コートを引っつかんだ。



 粉雪はただひたすら白かった。
 新宿の雪。
 無に帰す雪。

 それが、降り積もる。



 粉雪が降りしきる中、翠鈴の店の扉を押し開ける。
 誰も、客がいなかった。空気が冷えている。
 ひげのマスターが、カウンターで呆然としていた。
 マスターは、駆け込んできた私を見て、弱々しく笑った。
 「・・・遅かったんです」
 私の身体から力が抜けた。

 マスターから聞いた話では、ちょうどその日、翠鈴は祥司と店でいつものように飲んでいたらしい。
 そして、祥司が帰る時間になり、翠鈴と一緒に戸口を開けた途端、粉雪が吹き込んできた。道理で今日は冷え込むな、とマスターは思った。
 しかし、祥司の反応は違っていた。
 吹き付ける雪の中に一歩踏み出しかけ、突然ばねが弾けるように店の中に戻って倒れこんだ。駆け寄る翠鈴を払いのけ、祥司はしばし震えていたらしい。
 そして、祥司はふらふらと起き上がると、マスターに水を一杯求めた。マスターが、気付けのためにグラスに水を注いで出すと、祥司は、胸の銀色のロケットを引きちぎり、それを開け、中に入っていた白い粉のようなものを水に溶かし、それを一気に煽った。
 一息つき、祥司は翠鈴を見詰めたようだった。翠鈴は、心配そうに祥司を抱きしめた。
 だがそれも長くは続かなかった。
 奇妙なうなり声が次第に強くなる。それは、確かに祥司の口から洩れていた。
 怪訝そうに祥司の顔を覗き込んだ翠鈴が、きゃっ、と叫んで身を離した。
 それと同時に、祥司が立ち上がる。
 マスターを、見る。
 その瞳は血走り、口元からはよだれが滴り落ちていた。震える、身体。
 うなり声は大きくなる。両の拳が限界まで握りしめられたのをマスターは見た。
 獣のような叫び声を上げて、祥司は自らの服を破った。服だけではなく、自らの身体をも思い切りかきむしった。上半身が引っ掻き傷で真っ赤になり、血が流れ出る。
 やめて、としがみつく翠鈴が、いとも簡単に弾き飛ばされた。
 そのまま、祥司は雪の中へ駆け出していった。
 『祥司!』
 翠鈴が、その後を追った。



 人間の持つ凶暴性、暴力性を限界まで引きずり出す、白い粉。
 祥司の首に揺れていた銀色のロケットには、PCPが入っていたに違いなかった。それは伝説の麻薬。ケタミンと類似した組成と作用を持つが、流通量は皆無に近く、手に入れることは極めて困難と言っていいだろう。
 PCP。悪魔の麻薬。しかし、またの名を、『エンジェル・ダスト』。
 そして、新宿に降るその雪も、天使の魔法の粉だった。



 私は、今年の冬の訪れを待つ。早い秋の訪れをほんの少しいぶかしみながら。

 きっと彼は、新宿の雪の中にかき消えて、もう二度と出会うことはないだろう。
 彼の一番最後に残った生への欲望も、新宿の雪の中では無力だった。それほどに、彼は無に冒されていた。
 『エンジェル・ダスト』を使ってまでつなぎとめようとした最期の思いは、一体何だったのだろうか。
 いや、そもそも一体何が彼を虚無に陥れたのか。
 もはや、問う術はない。

 けれども、翠鈴。
 あなたは、まだ大丈夫なはずだ。
 新宿の雪の中に消えることのない輝きを、あなたは持っていた。あの歌、『愛の歌』を、あんなに強い思いで歌えた。
 あなたは、まだ無に冒されきっていない。そのはずだ。

 だから、翠鈴。
 もしあなたが、この文章を読んだならば。
 私に連絡をください。
 あなたは、まだ戻って来れるはずだから。

 それとも、結末は、やはり『愛の歌』と同じなのだろうか。
 男を追いかけて、雪の中にかき消えてしまう女。
 それは、翠鈴がモデルになっていたのだった。

 私は、今年の冬を待つ。
 今年も、新宿に雪は降る。
 そんな気がする。



 私が新宿という街で経験した、これはほんの瑣末な出来事である。




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