THREE KISSES ( with three songs )


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CHAPTER 1 〜 A Loving Kiss ( "やさしい気持ち" by CHARA)


 正昭はこのところずっと悩んでいた。
 考え続けて、おかげでこの前はテスト打ち上げ麻雀で大負け、11,750円(場代抜き)の出費をしてしまった。後輩たちは、いつもならばあり得ない出来事に、鬼の首を取ったように喜んでいたのだが。
 夏休み前にこの負けは痛い。
 舞子と、たくさん約束をしているからだ。

 「おーそーいー!」
 会うなり舞子はふくれ面。20分の遅れは、この暑さでは厳しかったかもしれない。
 「だから喫茶店か本屋にしようって言ったじゃん。お前がここで待ち合わせしようって言うからさ」
 「だあって、待ち合わせって言ったら、ここでしょ?」
 そのとおり、ここは渋谷のハチ公前。
 けれども、7月後半の東京は暑い。それを知っていた正昭は、だから夏に外で待ち合わせはしないことにしていたのだったが。
 それを、岩手から出てきたばかりのこの大学1年生が、強引にこの待ち合わせスポットを決めたのだ。女心が分からないの? などと電話で言われ、それはただの田舎者じゃないか、という正昭の反論は却下された。
 「正昭が遅れなければいいの!」
 「・・・はいはい分かりました。私が悪うございました」
 「分かればいいの」
 年下なのに、彼に向かって人差し指を振るのが舞子の癖だ。
 そして、何も分からなくてもとにかく行動に移すことも。
 「・・・舞子、こっち」

 気性はまっすぐなのに、舞子のボールはよくガータへ落っこちる。いや、まっすぐだからガータに落ちるのも一直線なのか。
 「あーん、また落ちたよぉ!」
 「投げ方がおかしいんだ。そんな突っ立ったままで投げてちゃ」
 正昭は自分のボールを拭きながら笑う。彼のアベレージは160前後。一般の大学生としては中の上くらいの腕前だ。フォームも安定していてなかなかのもの。
 正昭の投げたボールは、糸を引いたようにスイートスポットに入り、綺麗なスプラッシュを生んだ。
 「あーっ、またストライクぅー」
 「まあね」
 得意気に戻ってきた正昭の横を、唇を尖らせて舞子は抜けていく。9号のボールはちょっと彼女に重過ぎるような気がしたが、正昭はそのまま黙っていることにした。
 助走からして、ててててっ、という感じ。これでは多分また・・・
 揺れるセミロングの髪を眺めながら、正昭は彼女の言葉を思い出していた。それはついこの前のことなのに、まるでスライドのように懐かしい追憶となっていた。

 正昭と舞子は、大学のテニスサークルで知り合った。
 テニスサークルによくいる茶髪にあゆ風メイクという女たちの中で、北国の透き通った肌に綺麗な黒髪の女の子は皆の注目を集めた。
 なかなかの競争率をくぐり抜け、正昭が舞子と付き合い始めたのはつい一月前。副サークル長だった彼に、職権濫用との声も多かったのだが、実際は舞子からの、震えながらの告白だった。
 キスは、それから5日後、正昭から。
 それも、余りに余りなシチュエーションの中、だった。

 夕焼けを臨む、サークル室でのこと。
 一人で会報の原稿を打っていた正昭のところへ、舞子が入ってきた。
 「お仕事中?」
 「うん。ま、もうすぐ終わる」
 そう、と頷いて、彼女はそのまま窓際へ歩いていった。開け放しの窓は四階。舞子はそこからふと夕焼けを眺めているようだった。
 しばらく、キーボードを叩く音だけが聞こえる。
 「・・・終わったぁ」
 以上、と締めて、正昭は顔を上げた。
 舞子が、彼をじっと見ていた。
 「・・・終わったよ」
 「・・・そう」
 彼女はそこから動こうとはしなかった。
 「夕焼け、すごいね」
 「うん」
 「この部屋は西陽が直だから」
 正昭が近づいても舞子は動かない。動かないのはその視線も同じだった。
 六月の夕焼けは特別な暖かさで、光線は風を運び、彼女の黒髪をいたずらっぽくなびかせる。伸びをして歩み寄り、くすんだオレンジを見る正昭の隣で、舞子はそっと息をついたようだった。
 「キス、していい?」
 その息は飲み込まれた。
 正昭へ吸い込まれる舞子の瞳の奥で光が踊る。きっとほんの少しは分かっていたのかもしれないが、それでも舞子は一回だけ瞬きで不安を囁いた。
 逸らされた視線。今度の囁きは唇から洩れた。
 「・・・はい」
 舞子のやわらかいセミロングの髪をそっと撫でる。いつの間にか胸の前で軽く握られていた彼女の手を包み、正昭は舞子の顔を自分の胸にうずめた。
 「好きだよ・・・」
 ほんの微かに舞子は頷く。
 正昭の唇が彼女の額に触れたその一瞬、舞子は肩を縮込ませた。
 それが終わって、舞子は正昭を見上げた。
 見上げた唇に、正昭は自分のそれをそっと重ねた。ただ重ねるだけの、優しいキス。

 髪をもう一度撫でてから、正昭は離れた。
 舞子は目を閉じていた。
 その睫が小さく震えていたこと、桜色の唇が夕焼けで色を淡くしていたこと、そよ風が彼女の匂いを運んできたこと、そんなことは正昭は知らない。
 ただ何かどうしようもないほどたくさんの花束の中にいること。それだけだった。

 舞子が目を開く。途端に夕焼けが彼女の瞳に戻り、名前のとおり軽やかに舞い始めた。優しいと息が彼の口を包み、それが正昭に言葉を思い出させる。
 けれども、思い出せたのは一言だけだった。
 「・・・きれいだね」
 舞子の唇が、きっとこれから空に現れるだろう三日月をゆっくりと形作っていった。はずかしいと下唇を噛む、それが舞子の癖であることに初めて正昭は気付いた。
 「うれしい」
 吐息のような声が正昭の記憶に残る。
 正昭の胸の中でもう一つ囁いた彼女の言葉は、だが途中で空気に溶けてしまった。
 「やっぱり・・・」

 「まーさーあーきー!」
 はっとして、正昭は目の前の舞子に戻った。
 「あ、あっ、ごめん」
 「どうしたの? 具合悪いの?」
 「いや、ちょっと考え事」
 「ふぅん」
 不機嫌である。
 可愛らしい「G」と「-」が、スコアに仲良く表示されていた。
 「どーせね、あたしは下手ですよ」
 今日はよくふくれるなあ、と思いながら、正昭はボールを持った。胸にそれを抱え込んで、息をつく。
 ”何が、「やっぱり」なんだろう・・・”
 やっぱり、このひとでよかった、ということ?
 そう思うのは自惚れなんだろうか。そうであれば、何がよかったんだろうか。
 「早く投げなさいよー」
 気を取り直して投げたボールは、大きく曲がった。
 「あれぇ・・・ 一本?」
 後ろで舞子のくすくす笑いが聞こえた。

 最終スコアを見て、舞子が嘆く。
 「ひどいねぇ。47だってさ」
 「賭けときゃよかったかな」
 「ふーんだ。その賭けで1万以上も負けたの誰よ。だいたい正昭は賭事やりすぎだよ。あんなのどこが楽しいの?」
 「はいはい俺が悪かった」
 「分かればいいの」
 エレベーターがなかなか来ないので、二人は階段を降りる。
 このビルの二階は何も設備がなく、人がいることはほとんどない。今日は平日で、また夏休みの始めであり、やはり人はいなかった。
 舞子が正昭の袖を引っ張った。
 「ん?」
 「・・・ね、正昭。キスして」
 返事も聞かないで舞子が目を閉じる。
 正昭は彼女の髪に触れて、そっと唇を重ねた。

 舞子はキスした後に必ず恥ずかしげに唇を噛む。その仕草が、正昭は好きだった。
 今も、舞子は声にならない笑いを洩らす。
 大隙で大好きで、彼は彼女の額に軽く口付けた。
 「・・・かわいいね」
 彼女の笑みが、一層深く鮮やかに刻まれた。
 「ふふっ、・・・うれしいな」
 ゆっくりと離れて、そして一気に大輪の花が咲いた。
 「さ、正昭、行きましょ!」
 軽やかに階段を下りていく彼女を追いかけて、しかし正昭はすぐに立ち止まった。
 ”ああ、そうか”
 少し、分かったような気がする。彼女がキスの後はにかみながら笑うのが。彼女が、うれしい、と呟くのが。彼女がどんどんきれいになっていくのが。
 それはとても簡単なことだった。

 「正昭、次はどこ?」
 「こっち。おいで」
 舞子は正昭についてくる。
 そこへ、正昭は手を差し出した。
 「ほら、手をつなごう?」
 そうすれば、この胸一杯に満ちたやさしい気持ちが伝わるはず。
 たくさん遊ぼう。たくさん約束しよう。そしてずうっと、こうしていよう。

 こうすれば。
 きっと、舞子は下唇を噛むから。






CHAPTER 2 〜 A Kiss for Escape ( "やきそばパン" by 川本真琴 )


 無機質な目覚ましの音。
 「ん、んん・・・」
 朝の七時。ガッコへ行く時間だ。
 いずみはベッドから這い出る。乱れたパジャマが澱んだ空気をかき混ぜた。
 ”あーあ、今日もまだあたしはあたしだよ”
 いずみはのろのろと制服に着替える。
 「いずみー、早く起きなさーい。遅れるよー」
 「・・・はいはい」
 誰にも届かない返事が、カーテンの向こう、秋の朝日に吸い込まれていった。

 二時間目の世界史の授業。相変わらずつまんない単語の羅列。好きじゃない。
 いずみはルーズリーフにペンを走らせた。
 『ね、ユミコは?』
 それを隣の三咲に素早く渡す。
 すぐに、戻ってきた。
 『彼んちに泊りじゃない? 体育で代返よろしく、ってきのう言ってた』
 『ユカは?』
 『しんない』
 ”なーんだ、つまんないの”
 またひとりのお昼になりそう。
 「おまえら、ここは暗記しとけよ。テストに出すぞ」
 まるで目覚ましのベルのような声。
 今日は秋晴れとかいう無駄なほどにさわやかな天気。窓際の方ではチョークの粉がきらきらと舞って、それを見るのがいずみは癖だった。
 けれど、それが好きかどうかなんて知らなかった。

 昼休みになっても太陽はずっと輝いていた。
 ”・・・あんたも、ひまそうねぇ”
 ひとりぼっちで屋上に登って来たいずみは訳もなくお日様のことを思った。
 ベンチに腰掛け、購買で買ったやきそばパンの封を開ける。
 『いいやねぇ。ダイエットの心配のないやきそば娘は』
 やきそばパンのやきそばはいつもじっとりと油っぽい。ユミコやユカは、そんなものを食べるいずみを”やきそば娘”と呼んでいた。
 ”そんなの知らないわ”
 呟いて、いずみはパンにかじりついた。
 今日、どうしよう。
 家へ帰っても、どうせパパとママのけんかを見せられるんだもん。そんで、テレビの音を大きくすると、うるさい、って。冗談じゃない。
 何だかホテルに住んでるみたいだった。

 夜になっても雲ひとつない。まんまるの月は、やっぱりひまそうに地球を見下ろしている。
 ”東京だとあんたも友達いないのねぇ”
 池袋のネオンで星の光はかき消される。同情するしかないお月様だった。
 いずみは駅近くのちょっとした公園のベンチにひとり座っていた。荷物はコインロッカーに放り込んできた。周りには同じような女の子が、ルーズソックスに茶髪、いかにも今時の女子高生、という感じでそこかしこに群がっている。
 公園でスケボーを転がしては無遠慮に笑う、やっぱり茶髪にTシャツ、短パンの男たちがうるさい。もっとうるさいのが、どうしようもなく軽そうな男どもがナンパしてくること。何人かナンパに成功して、多分ボーリング場やカラオケのある方に消えていく。
 いずみは今夜は無視一辺倒を決め込んだ。無言の反応なし、に彼らは首を振ってターゲットを変更する。
 ”あーあ、どうしよう”
 何度目の呟きか。最近彼氏が出来てから、ユミコは付き合いが悪い。ユカも、つまんないとか言って学校に出てこない。おかげでいずみはひとりきりだ。

 と、横合いから声がかかった。
 「すいません。ここ、いいですか?」
 眼鏡をかけた若いサラリーマン風の若い男が、空いているベンチの端っこを指差していた。何だかすらっとした感じの、そつない雰囲気。
 「はぁ。どうぞ」
 「すいません」
 男は流れるように腰掛けて、ポケットから煙草を取り出した。マルボロの赤。
 「・・・煙草、いいですか?」
 「あ、別に」

 軽く微笑んで男は100円ライターで火を点けた。一瞬、彼の顔が照らされたが、いずみにはよく見えなかった。
 彼はうまそうに紫煙を吸い込んだ。
 そのまま、彼女に話し掛けることもなくカバンからノートパソコンを取り出したことはいずみの予想を裏切った。
 街灯の真下、キーボードを打つことができるほどには光は強い。彼は、何やら通信用の機器を接続し、メールを見ているのだろうか、真剣な目でモニタを見詰めている。煙草の煙は鈍色の光を漂わせ、時々彼の顔を隠したりする。
 しばらく、キーボードの音が小さく響いていた。

 「・・・あの。灰、落ちるよ」
 「ああ、これはどうも」
 いずみの言葉に、彼はまた軽く微笑んだ。真剣な瞳が、その時だけいずみのために和らいだ。

 ”・・・何だよ、それ”
 何でそれだけで彼がきれいに見えたのか。街頭の光に反射する眼鏡も。キーを叩く、男にしては細っこい指も。煙の奥の横顔も。
 いずみは自分の指を眺めた。
 小さいころからやらされているピアノのおかげで、余り形のよくない指先。
 そういえば。
 茶色に染めてしまって痛んでいる髪の毛。
 カラーコンタクトの輝きはフェイク。
 余り好きじゃなかったけど、友達に合わせるためにちょっとサロンで焼いてしまった肌。
 何でそうなのかは全然分からなかったけれど、いずみは思った。
 ”・・・このひとの方があたしよりきれいだよ”
 すごくむかついてきた。
 何で現役女子高生のあたしよりそこらへんにいるサラリーマンの方がきれいなの?

 いずみは立ち上がって、ベンチの後ろにそっと回った。
 男は今キーを叩くのに夢中で、複雑な英語のような文字と記号が並ぶ画面に見入っていた。きれいに整った黒い髪は、しかし整髪料のぎらつきがない。
 よく分からなかったが、とにかくその時は、彼を汚してやりたかった。
 後ろから、いずみは彼の頬にキスをした。

 灰が、ぽとりとキーボードの上に落ちた。
 いずみはゆっくりと、効果的な余韻を残すように離れていく。その両腕も、そっと彼の肩を擦っていく。
 男はいずみをちょっと見遣ると、落ちた灰を息で吹き飛ばした。
 「・・・面白くない冗談だな」
 声色は街頭の硬質な光を反射していた。
 「そう? 得したじゃない。現役女子高生の唇だよ」
 彼がパソコンの電源を落としている間、いずみは勝利感にひたって微笑んでいた。
 改めて、男がいずみの全身を眺め渡した。整ったプロポーションはいずみの自慢だった。
 彼は、ため息をついた。

 「・・・よくそんなことが出来るな」
 「ねぇ、仕事終わった? だったらこれから遊ぼうよ。池袋はよく知ってるし」
 「親は何してるんだ」
 「・・・知らないよそんなこと。ね、行こうよ」
 彼は微笑った。何故微笑ったのかいずみは分からなかった。
 でも、街灯以外の光がその瞳に宿るのを確かに見て、それがいずみのどこかを射抜いてしまったのを確かに感じた。

 「・・・おまえ、独りか」
 「見りゃ分かるじゃん」
 「そうじゃなくて、友達はいるのか、ってことだ」
 「なっ・・・ 何言ってんの。あたりまえじゃない」
 「淋しいんだろ。こんなことするくらいだから」
 「・・・」
 何で彼が微笑いながらそんなことを言うのか。何でそんな平凡なことを言ってるだけなのに答に詰まっているのか。
 責められている・・・?
 けれども、彼の声は澄んでいた。こんな澄んだやさしい声を掛けてもらったことはいずみの記憶にはなかった。
 まっすぐに叱られたことも、最近はなかったかもしれない。

 「暇で暇でしょうがないんだろうね。学校はつまらないか」
 リップクリームは十分ついているはずなのに唇が乾く。息はできるはずなのに胸が苦しい。こんなの放っておいてさっさと行ってしまえるはずなのに身体が震えて動かない。
 責められているはずなのに、きもちいい。

 男はここで少し黙っていずみを見た。動けないいずみをよそに煙草をもみ消して、パソコンをカバンにしまい、立ち上がる。
 いずみはそれに合わせて男を見上げた。いや、いずみの目が彼の瞳に引っ張られた。
 彼の背はいずみよりも優に頭一つ半は高かった。見下ろされることはいずみが彼に支配されていることを意味して、そのことにいずみは昂った。
 あたしは、最近どうかしてるんだ。
 助けて、だなんて。
 もっと、言って欲しい、だなんて。

 「そんなつまんないところなんかさっさと逃げ出してくればいいじゃん」
 「え?」
 「さっさと退学すれば?」
 「え? だ、だって・・・」
 「確かに厳しいだろうけどさ、世の中には学校出てなくたってすごい人たちがいっぱいいるさね・・・ 信じられないような人たちが」
 「な、なんで・・・」
 「嫌なのか」
 「・・・わかんないよそんなの」
 「行くんだったらそこを面白くすればいいし、行かないんだったらそっから逃げて自分のやりたいことをすればいいし。どっちがいい?」
 「・・・わかんないよそんなの」
 「そのままじゃいつまでもそのままだぜ。ま、それでいいんならいいけどさ」

 ああ、このひとは。
 いずみは思った。
 自分のやりたいことをやっているんだ。

 「さあ、どうしたい?」
 彼は微笑いながら訊いた。

 あたしは・・・ どうしたい?

 「・・・もっと、自分の好きなようにしたい」
 「じゃあ、力を付けるんだな」
 彼は澱みなく言い切った。
 「学校に行くにしろ行かないにしろ、好きなことをするには自分の力を付けなきゃダメだ。何でもいいから・・・ 専門の技術を身に付けるとか。それが勉強でも同じことだ」
 彼はそこで一つため息をついた。
 「・・・すごい難しいけどな」
 一瞬、真剣な光。いずみはそれが欲しかった。

 男は時計を見る。
 「・・・もう戻らなきゃな。じゃ、ちゃんと帰れよ」
 「え、あ・・・ 戻るって?」
 「会社に。まだ下っぱだからな」
 最後は独りごちて、彼は煙草に火を点けた。

 いずみは何か言おうとして、何も言葉が出てこないことに気付いた。
 どうしよう。
 何か言わなきゃ。
 何を言えばいい?
 顔が熱い。考えがうまくまとまらない。
 どうしよう。どうしよう。

 「じゃあな」
 「・・・ねえ!」
 歩きかけた男が振り向いた。
 「どうした?」
 「あなたは、何をしてるの?」
 抽象的な問にちょっと首を傾げて、煙草をくゆらせた後、彼は言った。
 微笑ってくれた。
 「SEをやってる。システム・エンジニア。分かるか?」
 「ば、ばかにしないでよ」
 彼の答がいずみの答となって、興奮が一気に解放された。粟立っていた全身から、何かが心地よい余韻を残して引いていく。
 「その元気がありゃ大丈夫だな。じゃ、何にしろ頑張れよ」
 「あ、もう一つ」
 「なんだ?」
 「あたしはいずみ。 ・・・あなたの名前を、教えて」
 絶対に忘れることのない、彼の名前と彼の微笑み。
 「祐介だよ」

 珍しくその日の内に帰宅したいずみを見て、弟が驚く。
 そんな弟には目もくれず、いずみは書斎へと足を運んだ。
 たしかここには、パパのパソコンがホコリをかぶって眠っているはず。
 手には、遅くまでやってる本屋で買ったパソコンの入門書。
 ”まねだけどいいよね。とにかく、逃げ出さなくちゃ”
 向こうから、パパとママの口げんかが聞こえてくる。
 「やれやれ・・・」
 パソコンの掃除を終えて、いずみは呟いた。
 あなたは、逃げるな、って言わなかったね。
 だから、あたしはここから逃げる。どうにかして。
 けんかはどんどんエスカレートしていく。
 「うっるさいなぁ」
 まずは、ホテルみたいなあたしんち。早くチェックアウトして行かなきゃ。

 今日も晴れ。ユミコもユカも、出てこない。
 三時間目の数学。答が白黒はっきり出る。これは好き。
 「この公式は重要だぞ。憶えとけ」
 はいはいわかりました。これは、じゅうよう、と。
 窓際で、チョークの粉が陽の光に反射する。これはきれいで、好き(まるで祐介みたい)。

 ひとりぼっちで屋上。やきそばパンを食べる。
 いずみは相変わらず強く輝く太陽を見て、目を細めた。
 ”あんたも、ひとりぼっちでやれそう?”
 ちょっと微笑んで、いずみはパソコンの入門書を開いた。

 あたしは、ここから逃げ出す。
 それが叶って、そしてもしもう一度祐介に会えたら、祐介の前に立てたら。
 その時は、逃げるためのキスじゃなく。
 あたしが自分で頑張って逃げ出してここに居る。
 その証のキスをするわ。






CHAPTER 3 〜 A Kiss in White ( "SLIDE 〜 christmas mix " by Flipper's Guitar )


 ユニット・バスには緑色の入浴剤が入っていた筈だ。それは徐々に血の色と混ざって赤黒くなる。
 浴室中は、白熱灯の黄色い光。
 何処かの女が置いていった桃色のバス・タオル。
 青い硬質の輝きを反射するシャンプーとリンス。
 紫の歯ブラシ。

 浴槽から腕だけをだらりと出している男。
 その腕は小麦色に焼けている筈だった。
 しかし、今は、土気色。

 いつかきっと、この浴室に紺色の制服を着た警官が踏み込むだろう。
 鑑識は、こう書くこととなる
 『死亡推定時刻:12月24日の深夜から同月25日の早朝』
 クーラーが効き過ぎている部屋。
 そこは天井の照明で極彩色に彩られている。原色がゆっくりと踊り、大人しか入れない匂いが煙って澱む。
 複雑な意匠の壁。その辺り、思い思いの位置に、華、華、華。
 全ての華は、思い思いの服を纏っていた。
 華には古来から男が付き添うこととなっている。白いYシャツに黒のベスト、スラックス、胸には蝶ネクタイ。
 華・・・ 女はお札を折り畳み、男の胸ポケットに入れる。そして、舌を深くこじ入れる濃厚なキスが幾度も音を響かせる。
 ここは新宿歌舞伎町、一番街の地下。

 「望くん。御指名よ」
 野太い声に煙草をもみ消して、望は立ち上がった。少し眠かったが、胸ポケットのお札を抜いておくのは忘れなかった。
 「どなた?」
 「西野さん・・・ 今日の服は、新調らしいわよ。多分、ベルサーチ」
 「ありがと」
 軽く手を振り、望はマスターに笑いかけた。
 「ううーん。その笑顔いいわあ。ぞくぞくきちゃう・・・ その調子でね」
 望は、ルームライトも鮮やかなホールへ出る。
 カウンターに、四十路過ぎの女が彼を待っていた。
 「遅いじゃない。売れっ子も大変ねぇ」
 ねっとりと色気を帯びた声。
 西野の声に嫉妬を読み取り、望は覗き込むようにして彼女に言う。
 「・・・先の火曜日はどうしたんです? 私、ずっと待っていたんですけどねぇ」
 「ああ、ごめんなさいねぇ。うちの旦那が早く引けちゃったもんだから」
 彼女は望に腕を絡めた。その香水の香りは、彼の記憶にあったものとは違っていた。
 「あれ? 香水変えたんですか?」
 「そうよ。どうかしら?」
 自慢げに彼女は胸をそらす。半袖のワンピースは大きく胸元が開き、四十を超えても張りのある胸の谷間が覗いていた。均整の取れた肢体はとても年齢を感じさせなかった。
 「あ、服もそうですね」
 「気付いた? ね、どう? 似合う?」
 「ええ、とっても。身体のラインがきれいに出てますよ」
 ウェイターがカクテルを二つ置いた。
 「ね、どこのだと思う?」
 「・・・お好きなのは確かグッチでしたよね。違うんですか?」
 「外れ。香水も他のにしてみたの」
 うーん、と小首を傾げて、望は彼女を眺める。上から下へ目線を動かすその時にも、胸の谷間でちょっと留めるのを忘れない。
 それを意識して、彼女は悩ましげに身体をくねらせた。
 「・・・ベルサーチ?」
 「あたり!」
 彼女はカクテル・グラスのアレキサンダーを一口含んだ。
 「ご褒美をあげるわ」
 そのまま彼女は望に抱きつき、赤いルージュの唇を望のそれに押し付けた。
 生温い液体が望の口中に流れ込んだ。

 空も白む時刻。歌舞伎町は不夜城だ。
 ゴミ出しを終えて戻ってきた望に、マスターが冷たい麦茶とやきそばパンを差し出した。彼を、にっこりと笑顔で迎える。
 「ご苦労さまぁ。今日もよかったわよぉ」
 「どうもありがとうございます」
 それを受け取って、望は従業員室に引っ込んだ。
 ドアを閉めて蝶ネクタイを引きむしり、それを思い切り机に叩きつけた。
 ”あのクソババア。調子に乗って身体中舐めまわしやがって・・・!”
 麦茶を一気に煽る。
 ”冗談じゃねえ。てめえの白ブタみてえな身体なんか、誰が好きで舐めるか”
 いきなり脇腹に重い衝撃を食らい、望は息が詰まった。今飲んだばかりの麦茶が食道を逆流し、胃液のすえた臭いが床から立ち上った。
 いつの間にか入ってきていたマスターが、もう一度倒れている望の背を蹴った。
 「おら! 今考えたことを言ってみろ!」
 言うも何も、呼吸は全て胃からごぽっとこみ上げるアルコールを抑えるのに精一杯で、望は必死にマスターを見上げる。
 「まだ分かんねえのか! ったく頭の悪りい小僧だなぁ・・・ お客様あってのおまえらなんだよ! それが食わせていただいているモンの態度か!」
 「す、すいません!」
 咳き込みながら辛うじてそれだけは言えた。
 「もう半年になるんだ。早く慣れろ! 分かったな!」
 「は、はい」
 「分かりゃいいんだ」
 マスターが部屋を出てカウンターに戻る。
 望は、駆け上がってくるものをとうとう抑えられなくなった。
 吐瀉物の異臭が、部屋中に満ちた。

 まだ、吐き気がする。
 望は、自宅の浴室の鏡で脇腹を見た。紫色の痣が広がっていた。
 マスターは絶対に顔を殴らない。それがホストの商売道具だからだ。その分、見えない身体へのダメージは大きい。
 「・・・痛ってぇ」
 湯船につかると湯が染みる。まだ27歳の若さとは言え、これは回復に時間がかかりそうだ。
 顔を顰めながら、身を沈めた。深呼吸すると、肋骨に痛みが走った。
 ”慣れろ、か・・・”
 そのとおり。慣れれば飯が食える。
 感覚を麻痺させる。慣れてしまえ。慣れる怖さにすら、慣れてしまえ。
 無感覚な自分は、自分に優しい。
 望は、ぶくぶくと湯に潜っていった。
 世間ではもう夏休みが終わる頃。
 いつものように、夕刻の出勤。新宿駅で望は降りる。
 日本一の駅。一日に70万人以上が利用する、東京の象徴。
 そこに望が出てきたのは、何時のことだったか。

 いい加減にして欲しいこの残暑。
 いつものように、向こうに一番街のゲート。店まで望は早足で歩く。
 制服を着た中学生のカップル。男は流行りの格好、女は古風なお下げ髪。
 それに望が目を留めたのは、二人が通り過ぎた時だった。

 暑いことは暑いが爽やかな鹿児島。
 いつものように、朝の通学。駅のホームで望は待つ。
 お下げの女の子。彼を見つけて咲いた笑顔。
 彼女と望が手をつないだのは、遠い遠い昔のことだった。

 鹿児島の冬は、南国と言えどもそれなりに寒い。
 いつもとは違う、特別のイベント、クリスマス。
 その角を曲がると、ネオンの白い光が駆けて来た望を射抜く。
 その向こうにお下げの女の子を見つけたのは、二人で過ごした最後のクリスマスのことだった。
 今年ももう終わる。夕方の街にはクリスマスのイルミネーションがきらめいていた。
 望は用事を済ませ、コマ劇場の方から店へと急ぐ。
 広場の片隅に彼は目を遣った。
 それは彼にとって天の啓示だったか、それとも悪魔の囁きだったか。
 奇妙な既視感が望を捕らえた。
 そこに、女の子がいた。
 お下げの髪に、寒さで真っ赤になっているほっぺたが痛々しかった。
 ”・・・ああ、夏に通りで見かけたっけ”
 何故そんな彼方のことを思い出せてしまったのか。
 しばし立ち止まり、望は彼女を見る。
 ”彼でも待ってんのかな”
 何故そんなことに気付いたのか、何故そんなことを思ったのか、望は知りもしなかった。

 夜の10時を過ぎた。
 望は今夜も客に連れられ、歌舞伎町の二丁目、ホテル街へ行く。今日の客は何処かの社長の娘らしく、親に金を貰っては若さにまかせて連日遊び歩いているクチだった。
 「ねえ、望クン。ホント、わたしの愛人にならない? すうっと、そばに置いておきたいわぁ」
 「わあ、いいなぁ・・・ でも、僕のことどうしてもマスターが離してくれなくて」
 コマ劇場前に差し掛かる。
 「あのマスター、ホモでしょ? こわいわぁ」
 「マスターはホモじゃないですよ。ゲイだって言ってます」
 「おんなじじゃないの」
 合わせて笑いながら、望はそっと広場の隅を見た。
 それは意識的だったのか、それとも無意識のうちであったのか。
 そこに、女の子がいた。

 朝の四時半。さすがに冬では、空はまだ暗い。
 女の子は、彫像のようにただそこに座っていた。
 今日のデートのためのとびきりのコートは微かに震えている。寒さをこらえているのは傍目にも明らかであった。
 そのお下げに、何かが押し当てられた。
 はっとして、女の子は振り向く。不安と期待の眼差しが、全てを貫いてしまうように眼前の男へと線を引いた。
 「何時までこんなところにいるんだ? 新宿でも凍死者は多いんだぜ」
 瞳が瞬時に失望の光を湛えたのを見て、望は苦笑した。
 「ほら。あったかいお茶だ。飲めよ」
 白蝋の唇は一文字に結ばれたままだ。それは寒さのためではなく、厳然とした意志の為せる業だった。
 「何もしやしないよ。ほら」
 望は強引に、缶を彼女のかじかんだ手に握らせた。それが離れて落ちないのを見て、彼はほっと息をついた・・・ 無意識に。
 自分の缶コーヒーのプルトップを開け、望は促すために一口飲んだ。
 女の子はそれを見て、缶を頬に当て、俯いた。一瞬だけ、自分がどんなことをしているのか、それがどんな意味を持つのか、考えたのかもしれなかった。
 けれども、涙は落ちなかった。

 「お前さあ、本当に死ぬよ。駅まで送ってやっから、家に帰りな」
 女の子は弱々しく首を振った。
 風が吹く。お下げが儚げに揺れ、冬の氷のような空気が彼女を切り刻んだ。
 「人を待ってるんです」
 「夕方から待ってただろ? いい加減諦めろよ」
 また、女の子は首を振る。
 「でも、待ちます」
 声は掠れた。それは、より深く愛する者が敗者となる、古からの鉄則を表していた。
 「お前ねぇ」
 頑是無く彼女は首を振る。
 揺れるお下げを見ているうちに、望は腹立たしくなってきた。

 望は、彼女に何を重ね合わせたのか。
 この街の何処かで、白い光が煌いた。

 「教えてやるよ。人は約束を破るものだってな」
 人を傷つけるための言葉は、どうしてこんなにも簡単に出てくるのか。
 「そのお前の彼が守った約束は幾つだよ? 破った約束がどのくらい多いか、思い出してみな」
 女の子は何も答えなかった。
 それが、答だった。

 お茶の缶が、アスファルトに落ちて転がった。
 溶けた氷が、大切なコートを濡らした。
 声を洩らすまいとの努力は徒労に終わり、嗚咽が喉を突き上がった。
 どす黒い優越感に浸り、望は缶を拾った。

 「今までも待ち合わせに来なかったことだってあっただろ?」
 泣きながら女の子は頷いた。
 「全然時間なんて守らない男なんだろ?」
 泣きながら女の子は頷いた。
 「約束は破られるためにある、っていう言葉、知ってるだろ?」
 泣きながら女の子は頷いた。
 「ほら、始発はもうすぐだよ。行くぞ」
 泣きながら女の子は首を振った。

 女の子は真っ赤な目で望の手にある缶に手を伸ばした。
 望はそれを払いのけることが出来なかった。
 缶を望の手から取ると、女の子はまっすぐに望を見詰めた。
 「お茶、ありがとうございました」
 何で、こんな時に女の子は笑うことが出来るのか。
 「でも、待ちます」

 この街の中、純白の光が爆発した。
 それは望を叩きつけ、脳裏に鮮やかに刻まれた。
 その真っ白な光の中に、望は見た。見てしまった。
 思い出してしまった。
 「・・・勝手にしろっ!」
 望は逃げ出した。
 その夜、望は夢を見た。
 見てはいけない夢を見た。

 『望くん』
 改札口で望を見つけ、美香は微笑んだ。お下げの髪の毛が、ころころと弾む。
 望は小さく手を振った。チェッカーズがかかっているウォークマンを止める。
 そして、望は時計を見た。
 『美香、急ぐぞ。もう45分だ。終業式、始まるぞ』
 『そうね』
 『ほら』
 望は手を差し出す。彼女の笑顔は、今日の南国の太陽のような強烈な輝きに変わった。
 二人は走り出す。
 今日で一学期が終わる、中学三年の鹿児島の夏。

 こんな夢はいやだ!
 意識の向こう側で望は叫んだ。
 けれども夢魔は圧倒的な力を以て、まるでスライドのように、モノトーンの場面を切り替えた。

 『望くんは、どうするの?』
 『何が?』
 『進路よ。もう中三の夏が終わるよ? 考えてないの?』
 『ああ』
 望は、爽やかな夏の日差しに身を任せた。
 『美香は?』
 『とりあえずどこか高校に行くつもりだけど・・・』
 『オレは勉強が嫌いだからなぁ・・・ 高校は行きたくない』
 美香が息を詰まらせた。それはその答、そしてその次の答を予期していたからなのか。
 『東京にでも、出ようと思う』
 望は頭の小山田帽の位置を直した。鹿児島の田舎で中学生がそんなゴルフ帽を被るのは奇異なことであり、それは渋谷で流行のフレンチ・カジュアルもどきの真似であることは明らかだった。
 『東京に行きゃ、何か楽しいことがあるんじゃないか、ってさ』
 『・・・そう』
 彼を止められないことは世界中で美香が一番よく知っていた。大好きな大好きな望のことなんか、全部知っていると美香は思っていた。
 いつも先頭を切って走っていく望の後にずっとついて行きたい。彼と一緒にいると自分の優柔不断が消えたように感じて。
 『そんでさ、お前が卒業したら、東京に呼ぶよ。その時までに絶対稼いでやる。必ずな』
 美香はそっと微笑んだ。その微笑みの意味に気付くには、望は、そして美香さえも幼過ぎたのだった。
 ずうっと昔から、女が男に求めるものは決まっていた。金ではなく、傍にいること。傍にいて、やさしい気持ちを傾けてくれること。
 『約束する』
 そして二人は唇を重ねた。
 美香は思い切り望を抱きしめる。まるでそのキスが全てのすれ違いの始まりだと気付いたように。二人がこれ以上離れて行くのを拒むように。それでも永遠に続くキスはなく、その一瞬故にキスはいつもきれいだった。
 『きっと、待ってるわ』
 揺れる瞳が、夏の太陽の強烈な白い光とともに望の脳裏に焼きついた。
 『でもその前に、今年のクリスマスは、一緒にいようね』

 意識が真っ白になっていく。
 スライドは、まだ続くのだ。
 望はもう、叫ぶことはおろか拒むことすら出来ない。

 その年のクリスマス。望は友人の誘いを断りきれず、一晩中飲み明かした。
 もう朝の五時になってしまった、例年にない寒い寒いクリスマス。
 駄目だよな、と思いつつ、望は待ち合わせの場所へと走っていた。
 駅前の角を曲がる。
 壁一面の真っ白なネオンが望の瞳に飛び込んだ。
 そこに美香はいた。望とのデートの時にしか着ない、大事な大事なコートの襟をかき合わせて、美香はそこに立っていた。
 最後の力を振り絞って、望は美香の前に辿り付く。何も言えなかったのは、息を切らせていたからではなかった。
 美香が、望を見た。
 『ずいぶん、遅かったわねぇ』
 冷えて真っ赤になった頬は、懸命に微笑みを作っていた。
 そして、美香は、疲れてへたり込んだ望を、思い切り抱きしめた。
 『メリー・クリスマス』

 美香・・・
 呟きは彼を純白の世界へ追いやる呪文。

 15歳で東京に出て、しばらくは美香との文通は続いた。
 けれども、二人のすれ違いは埋まることはなかった。中卒の厳しさを骨身に染み込む程味わい、毎日が戦いの日々であった望は、南国の穏やかな高校生活を綴った美香の手紙が耐えられなかった。
 望は引越し、美香に住所を教えなかった。
 12月24日、クリスマス・イヴの日。
 「あら、望くん。具合悪そうじゃない?」
 「ええ、ちょっと・・・ でも、大丈夫です」
 「風には気を付けなさいよ」
 マスターに軽く手を挙げて、望はホールに出る。
 いつものように、西野がそこに立っていた。
 「こんばんは」
 「あら、顔色悪いわね。大丈夫?」
 「ええ、だって今夜はクリスマスでしょ? 西野さんが来る筈だから」
 「まあ、嬉しい」
 西野は、雌の臭いを揺らめかせた。

 晧々と照る月が、コマ劇場へと降りそそぐ。
 二人はホテル街へと歩いていた。
 コマ劇場前広場枯噴水。
 あの女の子がいた場所。
 
 望は、目を遣った。

 広場の片隅には、女の子はいなかった。
 代わりに、そこには萎れた花束があった。

 「どうしたの? やっぱり具合悪い?」
 立ち止まった望を見て、西野が彼を心配そうに覗き込む。
 そして、その視線の先にある花束を見つけて、ああ、と頷いた。
 「あの花束ね。そこで中学生の女の子が凍死したらしいの」
 西野は哀しげに目を伏せた。
 「何でも、約束した彼を待ち続けて、二晩もここに座りっぱなしだったらしいのよ。ほんと、警察は何をしてるのかしらね。そんな女の子がいたらどうにかしてあげるべきだったのに」
 歌舞伎町の冬、冷たい風が吹く。
 「持ってたあったかかったお茶の缶は、開けられもせずに冷え切っていたそうよ」

 そして、街の何処かで純白の光が煌いた。

 西野が望を引っ張る。
 「さ、行きましょ?」
 それでも動かない望に、西野は真っ赤な唇を尖らせた。
 そのまま、にっこりと笑う。
 「じゃ、元気が出るおまじないをあげる」
 西野が両腕を絡め、望の顔に唇を近づけた。

 純白の光が爆発した。
 その奥に見えた。

 美香・・・!
 何でお前が重なるんだ!

 望は吼えた。今まで決して上げることのなかった、身を振り絞る咆哮だった。
 びっくりする西野を突き飛ばし、望は走り出した。

 聖なる夜。白き導き手が、望を自愛に満ちた暖かさで包み込む。
 まっしろな光の向こうに聖女が見える。手を広げて、彼を迎える。

 美香・・・
 来るな・・・ 来ないでくれ・・・!

 それは、圧倒的な恐怖だった。
 「自殺ですか」
 「ああ」
 答えて、老練な刑事は浴室から今に戻る。
 部屋では鑑識がせかせかと動き回っていた。
 「ったく、正月が終わったばかりだってのに、何でこう人騒がせな・・・」
 刑事は大きく嘆息した。
 八畳一間の部屋の中はとても歩ける状態ではない。現に鑑識は、皆スリッパを履いて仕事をしているのだ。
 床には、蛍光灯の破片が散乱していた。
 刑事は独りごちる。
 「しかし、何でこいつは蛍光灯だけを叩き壊したんだ?」

 同僚の刑事がやってくる。
 「今のところ、身元は不明です。身元に関係するブツがなくて」
 「やれやれ・・・」

 12月25日の早朝から降り出した雪は、断続的に降り続き今に至っていた。最近の東京にしては珍しい。
 それは、街をやさしく純白に染めていく。




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