第10回 〜過ぎ去る時間〜 |
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もう、すっかり外は秋から冬へ、確実にその風の匂いが変化していて。 本当は、今日は会社に行かなければならなかったのですが。 気力が全くと言っていいほどわいてこなくて。 そもそも今日起きたのが午後4時という中途半端さ。確かに寝たのが午前7時だから仕方ないけれど。 それにしても、ほんとうに、何もする気にならない。 そんな、晩秋の日曜日。 起きて、無性に喉が乾いて。 煙草すらも吸えないほどに、喉が渇いて。 秋だからこんなに喉が渇くのか、と、理不尽なことを考えてみたり。 重い身体を引きずって、私は外に出ました。 マンションのドアが開くと、冷たい外気が身を包みます。 今日の東京は、晴れてはいるけれど、雲が漂って。その中途半端さに、私は私を重ね合わせて。重ね合わされたお天気の方は、きっとすごく迷惑だったんだろうけれど。 飲み物と、ついでに煙草を買うために、私は外に出て。 自然と、足は、近所のファミリーマートへ。 どうしても、そこへ行ってしまう私に私は少しだけ苦笑しながらも、足は、いつものファミリーマートへ。 この1週間、ただの一度も、彼女に会えなかった、ファミリーマートへ。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子が、ずっといない、ファミリーマートへ。 きっと、最近一番売上に貢献しているに違いないって。 苦笑、というより、半分自分への嘲笑にも似た、私の笑い。 そして、ファミリーマートのドアが、開きました。 「いらっしゃいませっ」 入った私を迎えたのは、レジに1人で入っていた店長の声。 投げかけられた声に、なぜかちょっと会釈してしまって、そこでまた、苦笑。 店内をざっと見回したけれど。 彼女は、いません。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子は、いませんでした。 入口からすぐに左に行くと、雑誌のコーナー。 何とはなしに、そこへ足を進めて。 乱雑に積み重なっている、雑誌たち。もっと、ちゃんと、整理しなくちゃいけないんじゃないの? 明日、少年ジャンプの発売日だよ? どうでもいいことを考えながら、適当に雑誌を手に取ります。 店内放送では、浜崎あゆみの年末のコンサートへの案内が流れ。 1冊、流し読みで読み終えて。 そういえば、近代麻雀を読んでいなかったなぁ。 ・・・あ、あったあった。 確か先月で、最終決着がついたんだっけな・・・ しばらく、何の気なしに、ページをめくっていました。 「・・・いらっしゃいませ、こんにちは」 後ろから、ささやくように。 いきなり声をかけられて。 女の子の、声。 静かな、でも鈴がコロコロと転がるような、声。 聞きなれた、声。 その時私は、きっと光よりも速く、振り向いて。 見慣れた制服。 見慣れた背丈。 見慣れた髪型。 見慣れた眼鏡。 見慣れた笑顔。 10冊くらいの雑誌の束を胸に抱えた女の子が、笑っていました。 私を、少し見上げるようにして。 少し、首をかしげるようにして。 メガネの奥の大きめの目が、まぶしそうに、細められて。 それはまるで、冬、マフラーをつけてダッフルコートを着た少女が、散歩の途中の公園で、初雪が空からひらひらと舞い落ちてくるのを見つけて、大きく手を広げながら、うふふっ、と笑って天を見上げている時のように。 「こんにちは」 抱えた雑誌の束のせいでそんなに大きくは出来なかったけれど。 ちょっと、頭を下げて。 お辞儀をして。 「こ、こんにちは」 呆然としている私の足元に、雑誌の束を置きました。 「・・・ちょっと、ごめんなさい。棚の整理をしなくちゃ」 「あ、ああ・・・ 失礼」 私は、少し脇にどきました。 そんな私を見た彼女が。 私を、そっと、確認するように眺めた彼女が。 すうっ、と。 そよ風のように微笑んで。 なぜ微笑んだのか。 それは今、こうしてこの部分を書いている、今この時点になってもわからないのだけれども。 そして、ファミマの制服を着た彼女は、そこにしゃがんで、雑誌を一つ一つ、並べ始めたのでした。 ほんの少しの時間だけ、2人とも、何もしゃべらずに。 私は近代麻雀を読み、女の子は雑誌を片付けて。 沈黙の時間の海にたゆたう2人。 1週間ぶりなのに、何も話すことはなく。 そしてそれが、ほんとうに自然なことのように思えて。 並んでいる、ただそれだけで。 風が時間とともに流れていって2人を包み込んでいくような、そんな気がして。 まるで、ずっと前から、こんな時間が2人の間で続いていたような・・・ まるで、ずっと前から、こんな時間が2人の間で続いていて、今もいつものように、まったく普通のことのように、こんな時間が流れているような・・・ まるで、ずっと前から、こんな時間が2人の間で続いていて、今もいつものように、まったく普通のことのように、こんな時間が流れ、そしてこれからも、こんな時間が2人の間で続いていくことがはっきりとわかっているような・・・ まるで、全てが夢であったような。 そんな、時間。 それでも。 夢はいつまでも夢なのかもしれなくて。 私は、近代麻雀を読みながら。 さりげなく。 いや、さりげなく聞こえるように。 夢がずっと夢であり続けるように願い。 口を開いたのでした。 「・・・バイト、復帰したんだ」 とたんに凍りつく、2人の時間。 はた目にも明らかに、女の子の身体がびくりと動き。 雑誌を整理する手は止まり。 それで、はっきりと分かったのです。 まるで、一枚のガラスに放射状にひびが入っていくように。 夢は崩れ去っていきました。 「・・・お父さんが、時間が早ければ、いいって」 「そ、そうなんだ・・・」 答えて、雑誌のページを意味もなくめくります。 「だから、店長に言って、昼間とか、夜の早い時間にシフトを移してもらったの」 「そうなんだ・・・」 再び、女の子が雑誌をまとめ始めます。 私も、雑誌を読み始めて。 また、時間が流れていきます。 それでも、その時間は、ひどくリアルに、まるで目覚し時計が鳴り響くような騒々しさで、2人の間を流れていって。 店内放送の、浜崎あゆみの年末コンサートの案内が、また。 ふと、下の方から、視線。 読んでいた近代麻雀をずらすと、そこに、上を見上げている、女の子。 いつの間にか、私の足元のすぐ近くまで移ってきて、そこで雑誌を整理していたのでしょうか。 私の足に身体が触れるか触れないかのところまで、そっと、音を立てないように、気付かれないように、少しずつずれてきていたのでしょうか。 雑誌の表紙の向こう側にあるであろう私の顔を見詰められるようなところまで移動して、いつから、見詰めていたのでしょうか。 見えるのは、雑誌の表紙だけなのに。 けれど、雑誌は今、ずらされて。 私を見上げる女の子のひとみが、私の目に直接入ってきて。 こんなに近くにいて、こんなにまっすぐ私を見上げて。 それでも、そのひとみは揺れて。 親鳥を待つひなのように。 クリスマスの夜に一人母親の帰りを待つ子供のように。 7月8日に天で星の彼方を見詰める織姫のように。 こんなに近くにいるのに、とても不安に揺れて。 それに私は耐えられなくて。 再び、雑誌を読み始めて。 彼女の視線を、遮って。 雑誌をまとめる手の気配すら、感じないようにして。 それでも。 さっさと雑誌を読むのをやめて、ジュースを買いに行けばいいのに。 さっさとカップラーメンでも買って、家で早く食事をすればいいのに。 さっさと煙草を買って、食後の一服を楽しめばいいのに。 どうしても、そこから離れられなくて。 もう読んでしまったところを、また読み始めて。 そして、また口は開いて。 一層のリアルを2人に押し付けるのは分かっていながらも。 「・・・いつ、行くことになりそうなの?」 動揺の気配は、もう私の心を切り裂くことなく。 いや、きっと私の心が切り裂かれたのに私が気付かいようなふりをしていただけだったけれど。 女の子は、ぽそっ、とつぶやいたのでした。 「・・・今年中」 リアルは迫ってきて。 あと、1か月くらい・・・ 「・・・ほんとうに、行くことになりそうなの?」 「・・・うん」 リアルはさらに迫ってきて。 1か月くらいで、彼女はほんとうにイギリスに行ってしまう。 何で? 何でそんなことになったの? 何でイギリスなんかに行かなければならないの? 何でこんな中途半端な時期に行かなければならないの? 訊きたい。 訊きたいけれど。 それはリアル過ぎて。 突然、女の子が立ち上がりました。 私にぶつかりそうに・・・ いや、私にぶつかってくるように、立ち上がって。 私の目の前で、立てかけられた雑誌の整理を始めて。 私の方を見ることなく、ただ、淡々と、彼女のすべき仕事をして。 しばらく、2人はほんとうに近くに並んで。 片方は雑誌を読み。 もう片方は雑誌を整理し。 何もしゃべらないで、ただそれをするだけで。 「すいませーん! レジお願いしまーす!」 沈黙を破る、まさに破る、レジからの声。 レジには4人ほど行列が出来ていて、それをさばいている店長が、呼びかけたのでした。 雑誌をまとめる手が止まり。 引き裂かれるような、心の中。 女の子が。 一瞬。 声にならないうめき声をもらして。 それは嗚咽に似ていて。 「・・・はーい!」 りんとした返事が、女の子の口から響きわたりました。 手早く一応の整理をつけ、ぱんぱん、と手を払って。 きびすを返しかけて。 私のひとみを、まっすぐに見詰めました。 一瞬、何も見えなくなって。 私は、思わず雑誌を取り落として。 女の子が、素早く私の落とした雑誌を拾い上げて、棚に戻します。 そして、今度は私を見ることもなく、レジの方を向きます。 二つにまとめられた髪の毛が、去っていこうとします。 待って! そう叫んだのは心の中だけ。 代わりに私の口から出たのは。 「・・・ほんとうに、行っちゃうんだ」 どこに? レジに? ・・・イギリスに? レジに走りかけた女の子の足は止まり。 私を、もう一度見てくれて。 「しょうがないよ・・・ 行かなきゃ・・・ あたし」 どこに? レジに? ・・・イギリスに? 「お願いしまーす!」 ちょっとじれたような店長の声。 女の子がそれに答えようと口を開きかけたのを、私は見ました。 でも、声は、出ませんでした。 声にならない、声。 彼女が、声を詰まらせて。 そして、その手のひらで、口を押さえて。 何かを振り切るように一回だけ首を思い切り振りました。 それを、私は見たのでした。 女の子が、駆け出しました。 「すいませーん!」 今度は、彼女の声がきちんと出て。 彼女はレジに入ります。 それを見届けて、私は雑誌を置いて、何も買わずに、ファミリーマートを出ました。 「ありがとうございましたー!」 私を送り出したのは、忙しくレジを打っている店長の声でした。 |
第11回 〜約束〜 |
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ようやく、彼女とのことが書けるほどに、落ち着きました。 今も、相変わらず忙しいけれど。身体は日々の戦いでぼろぼろに近いけれど。 それ以上に、心が、疲れ果てていて。 きっと、12月という月が、終わりに向かって進んでいく、黄昏の月だからかもしれません。 彼女と一緒にいることができるのは、もう1か月もない。 すぐそこに、終わりが見える。そんな月だからかもしれません。 忙しさにかまけて、先週の土曜日まで、2週間、一度も近所のファミリーマートに行かなかった私。 深夜、会社から家に帰る時に、ファミリーマートではなく、会社の近くのコンビニでヨーグルトを買ってから、家路についていた私。 家で煙草を切らすことがないように、会社の近くの自動販売機で、いつもよりも1箱余計にセーラム・ピアニッシモを買っていた私。 こうしておけば。 近所のファミリーマートに行かなくても済むから。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子に、会わなくて済むから。 忙しさを理由に、ファミリーマートに行かなかった私が、そこにいました。 それでも、いつか破綻は訪れて。 今週の日曜日のこと。 昼頃に起きて、すぐに、気付きました。 煙草が、切れていることに。昨日、少し夜更かしして、そのまま寝てしまったから。 我知らず、舌打ちを一つ。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。 春のさわやかな風のように、私を一歩だけ後押ししてくれる声。 夏の輝く太陽のように、私に元気をくれる笑顔。 時に秋の物憂げな空気のように、私を心配させる吐息。 そして、これから訪れる冬の寒さのように、確実に私を切り裂いた、あの一瞬の表情。 彼女を、思い出してしまったのです。 忙しさで忘れかけていた・・・ 忘れようとしていた、女の子のことを。 別に、自動販売機で買えばいいのに。 別に、他のコンビニに行って買えばいいのに。 別に、少しくらい我慢すればいいのに。 それでも、足はファミリーマートに向いて。 雲に隠れた太陽のように、ファミリーマートの看板がくすんで見えて。 自動ドアが開きます。 「いらっしゃいませ! こんにちは!」 迎えたのは、前と同じ、店長の声。 レジには、店長が1人。 無意識に左を見て、雑誌のところにも誰もいないことを確認して。 ひとつ、ため息。 何のためのため息だったのか、そんなことは知らなかったけれど。 私は、雑誌のコーナーに、ゆっくりと歩み寄っていきました。そして、近代麻雀を、なぜか手に取って。 この前と同じことをしている私を、後ろで見詰めるもう1人の私がいて。 全部読み終わっても、誰も雑誌のコーナーに近づいてきませんでした。 1人のお客さんすら来ることなく、何で今日はこんなに空いているのだろうか、と、わけもなく考えたり。 また、ひとつため息。 そして、ヨーグルトを買おうと振り向いて。 すぐ向こうの紙パック清涼飲料水のコーナーに、商品を詰めたラックを足元に置いて、棚を整理している彼女がいたのでした。 彼女は、ずっと前からそこにいたかのように、ただ淡々とパックの清涼飲料水を棚に積んでいました。私が雑誌のコーナーにいたことは、すぐに分かるはずなのに、こちらを全く見ることなく、ただひたすらに彼女の仕事をこなしていました。 少しだけかがんだ彼女は、棚のまんなかあたり、その奥の方の商品を取り出して、そこに新しい商品を置いていました。 足元に置いたラックから商品を取るたびに、二つに束ねた髪がゆれていました。 そして、少し大きめのめがねの奥のひとみは、そのまっすぐな視線を、ずっと棚にそそいでいました。 それは、決して私を見ることはありませんでした。 私が清涼飲料水のコーナーに近づいても、彼女はそのまま。 私が清涼飲料水のコーナーで立ち止まっても、彼女はそのまま。 私が清涼飲料水のコーナーで品物を選ぶふりをしても、彼女はそのまま。 誰も、何も、口を開くことなく、時間は過ぎ去っていきました。 てきぱきと彼女は商品を棚に並べて、ほどなくラックの中は空っぽになって。 彼女は、それを、すっ、と持ち上げると、ひどく軽やかに、私の前を通り過ぎていきました。 何も言うことなく。 何も見ることなく。 ただ彼女の通り過ぎた風だけが、私の身体をそっと包み込んだだけでした。 彼女が従業員室に消えたのを、私はこの目で確認して。 ふと、少しだけ笑ってしまったことを、今でも憶えています。 どのくらいの時間、そこに立ち尽くしていたのか。 我に返った私が取ることができた行動は、やっぱり苦笑いしかありませんでした。 そして、私は、適当に清涼飲料水を取ると、レジに向かいました。 レジには、いつの間にか、彼女が入っていました。 私の足が止まり。 時が止まり。 レジに並ぶ人はなく、彼女は、後ろの煙草の棚を整理したり、肉まんのケースをちょっと確認したり・・・ 少しうつむいて、手持ちぶさたに、何かを待っているようでした。 何を待っているのか。 それは私だけに明らかでした。 私は、ひとつ息をつくと。 清涼飲料水の棚に戻り、手に持ったジュースを棚に戻しました。 彼女の親の転勤は、私にはどうしようもないこと。 彼女の親が、彼女を連れて行くかどうかを決断するのも、私にはどうしようもないこと。自分の力では、どうしようもないこと。 私の力では、どうしようもないこと。 煙草は、他のところで買おう。 そう思って、身を翻しかけた、その時。 私は見ました。 女の子が、私を見詰めていました。 私を、真正面から見詰める瞳。 そこには、何かを思って輝く光はなく。 そこには、何かを伝えようとして揺れる光はなく。 そこには、何かを待ち続けてふるえる光はなく。 ただ、私を真正面から見詰める瞳。 元気に満ち満ちた、心の中で固く閉じた想いのつぼみをあたたかく包み込む風のような、あの視線はなく。 抑えきれない思いがこぼれ出る、森の中で風に重なり歌う葉陰の間から射し込むやわらかい陽の光のような、あの視線はなく。 まっすぐにその思いを伝える、すべてを貫き通して一直線に進み行くひとすじの光の糸のような、あの視線はなく。 ただ、私を真正面から見詰める瞳。 何もなく。 ただ何もなく。 何もない・・・ ただそれだけがあり。 とても、そんな瞳を見ることが出来なくて。 私はきびすを返して、出口へと、向かったのでした。 ほんの10メートルもないのに、出口までの距離が長く、長く。 彼女の視線が、張り付くように、しかし何も伝えることなく、ただ、ついてきて。 確実に引き裂かれていく2人。 それでも、私は、彼女のそんな瞳は、見たくなくて。 そして、私は自動ドアの前。 彼女の視線も自動ドアの前。 機械はひどく正確に、その命じられた動作を実行しました。 晩秋の冷たい空気が、私の身体を包み込みました。 冷たい風が、私の心の中で固く閉じたつぼみをさらにちぢこませて。 その瞬間。 視線が揺れて。 意味もなく慌てて、私は振り返りました。 その時すでに、彼女は、私を見詰めたまま、涙を流していたのかもしれませんでした。 それがはっきりと見えていなかったのは、もしかしたら私の視線もまた揺れていたのかもしれませんでした。 ただ、ひとつだけ。 彼女の瞳をそんなものにしてしまったのは、私だったということだけ。 ただ、それだけ。 私は、ドアの前で立ち止まり。 そこで、初めて、彼女が彼女らしい動作をしたのでした。 一回だけ、喉から何か詰まったような声を出して、それを抑えようと、右手で口をおおって隠して。 それでも、うめき声は空気を震わせて。 女の子が、目を閉じるのが、はっきりと私に見えました。 閉じた瞳から、涙がこぼれ出ました。 彼女はそのままうつむいて。 背中を、ふるわせて。 こらえきれない嗚咽をもらして。 初めて、彼女は、泣いている人のように、泣きました。 笑顔が混じることもなく。 冗談でごまかすこともなく。 静かに泣くこともなく。 本当に、ただ悲しくて、悲しくて、泣いていました。 私は、レジに歩み寄りました。 近づく私から身を遠ざけるように、彼女は私に背を向けました。その背中は、ひきつけを起こした時のように、びくん、びくん、とふるえていました。しゃくりあげる声がかすかに、それでも何とか店内の放送にかき消されていました。 私は、彼女の背中に向かって、口を開きました。 それは、絶対に違えることの出来ない言葉。これから私が縛られる言霊。 そして、それは、2人が終わりに近づくことを、確実にするものでもありました。 「もう少し待ってて。今度の土日、必ず来るから。 ・・・絶対に来るから」 それだけ言うと、すぐに私は三度身を翻し、出口の前に立ちました。 機械はひどく正確に、その命じられた動作を実行しました。 晩秋の冷たい空気が、私の身体を包み込みました。 つぼみは、今度は固くなることはありませんでした。 なぜなら、背中から、ふるえる声がかけられたから。 「絶対よ。 ・・・絶対来て」 立ち止まった足は、すぐに動いて。 私は、ファミリーマートから出たのでした。 それから4日経った今日。 ようやく、私はこうして書くことができるようになったのでした。 自分の力ではどうしようもないものを欲しがる、子供のような私自身の姿を、ようやく書くことができるようになったのでした。 |
Interlude3 〜大人〜 |
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先週の金曜日、私は死ぬ気で仕事をこなしました。自分が何をやっているのか分からなくなるほど、仕事を回していきました。 だって、次の日に、用事があるから。 1日まるまるとはいかなくても、数時間は時間を空けたかったから。 深夜、土曜日に日が変わって、午前3時に精根尽き果てた私の前には、けれどもまだまだ仕事の山。 確実に、土曜日出社が決定です。1日に15時間以上座り続けている私の腰には、もはやどうしようもない鈍痛が走り、同じ時間だけパソコンのモニタを見続けている目は、すでに周囲が幻想世界に見えるほどにぼやけてしまっていました。 それでも、約束は私を縛り。 それでも、言霊は意識をある人影に向けさせて。 何よりも、私の心が彼女へ動いて。 土曜日。晴れ。快晴とはいかないまでも、冬の陽は懸命に下界に光を投げかけて。 重い身体を引きずって、私は、どうにか午後の2時ころ、外へ出ました。 寒い・・・ 風はほとんど吹いていないのに、一気に身体が冷えていきます。私は、ようやく押入れから出したトレンチ・コートの前をかき合わせて、歩き出しました。 そして、私の目は、一直線に近所のファミリーマートに。 いつものブルーが視界に入るとなぜか寒さを忘れてしまう、近所のファミリーマートに。 本当に、その時は寒さを忘れていました。 ファミリーマートの前に立ち、中をのぞきます。 自動ドアから見えるのは、レジに入っている店長だけ。他には、雑誌の棚にも、ポテトチップとカップラーメンの間の通路にも、店員さんの姿は見えません。 きっと、従業員室に入っているんだろうな。 そう思って、私は、とりあえず店の中に入って、待つことにしました。 約束をした、あの女の子を。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子を。 分厚い月刊少年マガジンを一通り読み終わっても、彼女は一向に現れません。 その後、週刊少年チャンピオンをざっと読み終わっても、彼女は姿を見せません。 彼女の影をひと筋でも見逃すまい、と、読みながらも周りへ時折り視線を走らせているのに。従業員室の扉が開くたびに、振り返ってそこへ目をやっているのに。もしかしてまだ来ていないのかもしれない、と、ガラスの向こう、外を歩く人々さえも、見過ごすことはなかったのに。 彼女が、ファミリーマートにいないのです。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子が、ファミリーマートにいないのです。 約束は、心を縛り。 言霊は、身体を縛り。 時間は誰にも構うことなく、ただ静かに流れていき。 土日に来るよ、って約束したのに。 絶対来て、って言ったのに。 彼女が、いないのです。 リアルを忘れたくて。 きっと、そっと後ろに近寄って、いつかのように、「いらっしゃいませっ」ってささやくように言ってくれる。 きっと、あわてて振り向いた私へ、大好きな色のハンカチをたたんで引き出しにしまう時のように、やさしくあたたかい微笑みを投げかけてくれる。 きっと、その次は、うさぎがはねるように軽やかに、二つに結んだ髪がぴょこんと揺れて、「遅れてごめんなさい!」と謝ってしまう。 そんなことを考えて。 それでも、彼女は現れなくて。 時間が、ただただ過ぎていって。 そして、限界が訪れて。 もう、1時間弱、ずうっと探し続けて。 私は、ゆっくりと、毎週買っているはずの「SPA!」を閉じると、もう一度だけ、お店の中を見渡しました。 彼女の姿はありませんでした。 レジで煙草を買い、店長の声に送られて、ファミリーマートを出ます。 痛烈な寒さが、私に襲い掛かってきました。さっきまですっかり忘れていた、この寒さ。 私は、外をぐるりと見回しました。すごく未練がましくて、思わず苦笑いしてしまうような、見回し方でした。 もちろん、彼女の姿を見つけることなど出来なくて。 約束。 それは破られるためにあるもの。 誰が、そう言い始めたのでしょうか。 土曜日。 私は、彼女に会うことは出来ませんでした。 なぜなら、ファミリーマートを出てから私は会社に行き、それからえんえんと、翌日に日が変わって午前3時まで、パソコンの前に座り続けなければならなかったから。 ようやく仕事にめどがついて、大きくため息をついたその時は、もう彼女がファミリーマートにいるはずがない時刻だったから。 彼女と、時間が合わなかったのかもしれない。 彼女に、何か事情があったのかもしれない。何か、絶対に外せない用事が出来たのかもしれない。どうしても、バイトを入れることが出来なかったのかもしれない。 そんなことはどうでもよかったのです。 いつも、彼女はそこに行けば私に笑顔をくれました。私に元気をくれました。私に安らぎをくれました。 それが、叶わなくなってきていること。 そして、それは・・・ 叶わなくなりつつあることは、もうすぐ、ほんとうにあたりまえのことになってしまうこと。 徐々に、現実がひどく確実に忍び寄ってきていること。 それを、ただ、思っただけでした。 日曜日。土曜日ほどスケジュールはきつくないけれど、やっぱり会社に行かなければなりません。 疲れ切った身体に嫌味なほど、きれいに晴れわたった青空。日曜日の東京は、雲ひとつない快晴でした。気温も、土曜日よりもずっと暖かかったことを憶えています。 ただ、風だけが強くて。 時折り吹きつける、冬の冷たい風だけが、強くて。 午後2時ころ、私は、家から出てすぐ、マンションの玄関で、コートを押さえながら何となく空を見上げていたのでした。 そして、私は、近所のファミリーマートに向かいました。 約束が、私の身体を縛っていました。 言霊が、私の心をそこへ向けさせました。 ほんとうに私はそこへ行きたいのか、その時は分かりませんでした。むしろ、考えないようにしていたのかもしれませんでした。 だって、必ず期待は裏切られるものだから。 ファミリーマートに入って、迎えてくれたのは店長の声。 お店の中を見回しても、あの女の子の姿はなくて。 雑誌のコーナーで、まんがライフをざっと読んでしまっても、従業員室からは男のバイトしか出てこなくて。 また1冊、美味しんぼのムックを読み切っても、彼女が私の後ろに忍び寄ることはなくて。 栄養ドリンクを持って、煙草を頼んでレジを済ませても、彼女が現れることはなくて。 まるで何事もなかったかのように、私はファミリーマートを出ました。自動ドアが開いて、風が吹きつけてきました。 ほら。 やっぱりね。 これが、来年の1月からの当たり前の風景でした。 ここに来ても、彼女はいない。 それでも。 会社へ向かう地下鉄の駅へと向きかけた足は止まり。 私は、ファミリーマートの隣にある居酒屋の前で、書類を取り出して、煙草に火を点けたのでした。 もはや、私にとって、拠り所は彼女との約束しかありませんでした。 折からの強風で、書類は何度も何度も裏返しになりかけました。そのたびに、私はため息をついてそれを持ち直して、文字を目で追って。 煙草の火は風に吹かれてずっと赤く、灰を落とす必要はありませんでした。 何で、こうやって待っているんだろう。 約束したから? 絶対来て、って言われたから? 待ってたって、来ないと思うよ? ほら、向こうだってこうやって約束を破ってるじゃないか。仕事があるんだから、そっちを早く片付けたら? もう、十分に待ったじゃないか。 けれども、ただ、約束は私の心を縛り付けて。 外に立ち続けて、もうそろそろ40分くらい。 手持ちの書類にも、それなりに目を通してしまって。予想外に仕事がはかどってしまったことに、少し意外な思いを抱きながら、私は顔を上げました。 煙草の煙を、大きく肺の中でかき回します。 少し、身体が冷えてしまったことを、意識しました。 そして、ふと。 通りの向こうの横断歩道を見て。 私の心臓が、1回だけ。 コトリ、と鳴ったのを、鮮明に記憶しています。 向こう側の横断歩道から、こちらをまっすぐ見詰めている、女の子。 風が、着ている紺色のコートをはためかせて、そのまま身体まで持っていかれそうになるのでは、と心配してしまうような、何だかとても頼りない女の子。 ぐちゃぐちゃになりそうな前髪を押さえて、それでもその視線は、まるでウィリアム・テルが息子の頭の上に載ったひとつのりんごを射る時のように、きれいに一直線に私を見詰めていた、女の子。 彼女は、信号が変わるのを待つのももどかしく、左右をきょろきょろと見渡して、車の切れ目を探していました。 でも、休日の大通りでは、そんなことがあるはずもなく。 信号を恨めしそうに見据える姿が。 きっと、「んもう!」とつぶやいているであろう、いらいらしたその表情が。 前髪からコートの裾、コートの裾からコートの襟元へと落ち着きなく動くその手が。 そのひとつひとつ、全てが私の見慣れた動作。 信号が、ようやく青になって。彼女が、とんでもないスタートダッシュで駆けてきて。きっと風すらも、きっと負けてしまいそうな勢いで。 彼女は、一気に横断歩道を渡りきりました。 私の目の前で、やっぱり。 急ブレーキをかけて、ぴったりと止まり。 まじまじと、大きめのめがねの奥から、私を見上げたのでした。 この、下から見上げるような、彼女の視線。 少し息が上がっていて、多分気付かれないようにしているのでしょう、少しずつ、息を整えるために微かに開いた、彼女の唇。 ファーの付いた襟元からのぞく、彼女のなめらかな首筋。 そのひとつひとつ、全てが私の記憶に刻み込まれていたままで。 女の子は、おそるおそる、私の腕をつかんで。 そして、少し大きめの瞳に見詰められながら、久しぶりに聞く、彼女の声。 「ほ、ほんとに、いるの・・・?」 彼女の手から、不安そうな震えが伝わってきました。 まるで、引越しが終わりかけ、荷物が運び出されつつある部屋で、一人忘れられ取り残されようとしている、テディ・ベアのように。 あと一吹きのそよ風で舞い落ちてしまいそうで、もう周りに誰もいない中、それでも一人で必死に木にしがみついている、黄色く染まった銀杏の葉っぱのように。 花壇に降りしきる雪に埋もれて、その紫と深緑色のコントラストすら、もうすぐにかき消えてしまいそうな、葉牡丹のように。 だから、私はそれに答えなければならなかったのです。 きっと、その不安を取り除くことができるのは、私しかいなかったから。 そんなことは約束していなかったけれど、私は、その時彼女のそばにいなければならなかったから。 約束が、私の身体から心から、ほどけていって。 「ずいぶん、遅かったね」 できるだけ明るく言ったつもりだったのですが。 はっとして、女の子は私の腕を強く握り締めました。 それが、不安とは違う彩りで、震え始めて。 あ・・・ 「ほら。泣かないで」 しゃくりあげかけた彼女の身体が、びくり、と動いて。 それでも、女の子の口からは、やがて押し殺したうめき声がもれてきました。 「うう・・・ だって・・・ だって・・・」 「ほら。泣かないの。せっかく久しぶりに会えたんだからさ」 うつむいたまま、女の子は首を振りました。 「だって、だって・・・」 「だってじゃないの」 「ご、ごめんなさい・・・」 だんだん、首を振る動作が大きくなって。 「約束したのに・・・ 守れなくてごめんなさい」 「ううん。守れたでしょ? 逢えたんだから」 「うう・・・ でも、でも・・・ あたし、ファミマに・・・ バイトが・・・」 「いいんだってば。逢えたんだから」 「ごめんなさい・・・ ごめんなさい・・・!」 だんだん、背中の震え方が大きくなってきて。 私は、少しだけ乱暴に、女の子を自分の身体から押し離して。 「ほら。ダメだってば!」 強めた語調に、女の子がびっくりして私を見詰めました。その瞳は、しっかりと磨かれた黒の碁石のように、つやめいて濡れ光っていました。 私の目と、真正面からぶつかって、彼女はまた顔を伏せてしまいました。 「だめ。顔を上げて。 ・・・泣いたら、会社行っちゃうよ」 「う、うああ・・・」 びっくりして、女の子は、ごしごしとコートの袖で目をこすりました。 そこで、初めて気付いたのです。 彼女のコートの袖口から、下に着ているはずの服の袖が見えないことに。 それは、彼女が長袖の服を下に着ていないことを意味していました。 まさか、ね。 「・・・ねえ」 「ん? ・・・な、なあに?」 まだびくびくしながらも、彼女は私の呼びかけに首をかしげました。 「何か、寒そうなんだけど・・・ 大丈夫?」 その問に、女の子はふとうつむくと、かすかにうなずきました。いつものふたつに結ばれた髪が、申し訳なさそうに揺れました。 「ちょ、ちょっとだけ・・・ 寒い、かも」 「ちょっとって言うけどさ・・・ 下、長袖着てる?」 「あうう」 女の子は、うつむいたまま、答えません。 まさか・・・ 「も、もしかしてさ・・・ 長袖じゃないの?」 がっくりとうなだれて、女の子は、ほとんど聞こえない声で、つぶやくように言いました。 「う、うん・・・」 「ええっ? な、何で? もう冬だよ?」 「うん・・・」 「風邪ひきたいの? ダメだってそんな・・・」 「だって・・・」 「だって、って・・・ 何やってたのさ?」 ますます女の子はうつむいてしまって。 「風邪ひきたいんならいいけどさぁ・・・」 だんだん問い詰めるような口調になっていく私に、女の子はどんどん小さくなっていって。 とうとう、口を開きました。 「・・・パーティ」 「・・・え?」 「ホーム・パーティ」 けげんそうな表情をした私に、女の子が気付きました。 「あの。お父さんが、今日、お世話になった会社の役員さんとか取引先の方々をおうちに招待して、パーティをやってるの。それに、あたしも出るように言われて・・・」 「・・・な、なるほどね。ホーム・パーティか・・・ って、ま、まさか・・・」 パーティ用の服装。カジュアルでなければ、女性の服装は決まっています。 彼女を見つめると、女の子は、恥ずかしそうに唇を少しだけかんで、視線を私からそらしました。 それで、確信しました。 「まさか・・・ ドレス?」 「うああぁ」 女の子は身をちぢこませると、ボタンはきっちりとしまっているのに、、コートの前を押さえて、くるりと後ろを向いてしまいました。 「は、恥ずかしいよう」 「へえ、ドレスかぁ。見たいなぁ」 「ぜっっっったいイヤ!」 「何でさ。似合ってると思うよ?」 「い〜や〜!」 「もったいないなぁ。きっときれいなのに」 「は、はずかしいからダメ!」 後ろを向いたまま、ぶんぶんと首を振る女の子。その耳が真赤に染まっているのは、冬の寒さのせいだけではありませんでした。 「あーあ。残念」 「ダメだからね!」 ゆっくりと振り向いて、女の子は、めがねの奥から私をのぞき込むようにして、そして自分の身体を少し抱え込むように震わせました。 「あ、寒いんだよね。どこか、ファミレスでも入る?」 「うん」 にっこりと彼女は笑いました。 それは、この冬の太陽の輝きを一瞬にしてかき消してしまうような、あたたかい笑顔でした。そう、私に元気をくれるような。 「・・・あ、でも、パーティは?」 「えへへ・・・」 女の子は、ちょろっ、と舌をピンク色の唇から出してみせました。まるで子リスのように、今にも、きょろっ、といたずらを仕掛けてきそうでした。 「抜けてきちゃった」 そして、彼女は、私の腕をつかんで。 その感覚は、まるで彼女が引っ越すと私に告げる前のことであるかのように。 「ね、早く行こ?」 結局、女の子は、近くのファミレスに入っても、コートを脱ごうとはしませんでした。 私は、これから仕事なのでコーヒーを。女の子は、パーティでたくさん食べてしまったから、とオレンジジュース。 さて、何を話せばいいのか、と、お互いが同じことを思って。思わず目が合って。 そういえば、こうやって2人で、ファミマ以外で落ち着いて逢うのは初めてだったり。 彼女が、オレンジジュースを一口飲み込んで、ホッ、と息をつきました。 2人とも、しばらく視線をさ迷わせて、何をしゃべっていいのか一生懸命探して。 「・・・あ、あの」 「そうだ」 同時に口を開いてしまい、一瞬の空白の後、また2人は同時に吹きだしました。 「うふふ。 ・・・おっかしいねぇ。話すこと、たくさんあるはずなのに」 「何だかねぇ」 彼女はストローをまたくわえて、ちるる、とジュースを飲み込んで。 「そうそう。あのね、今日のパーティでね・・・」 それからしばしの間、流れる時間が忘れられて。 女の子は、パーティで見た、人をやたらと誉めまくる変な外国人の話をし始めて。仕事で日本にいる外国人とよく会うことの多い私は、本気でそれに大きくうなずいて。 約束したことなんて、すっかり意識の彼方に放り出して、私は彼女と話していました。それは、夢中、と言っていいくらいに。 いや。 そのとおり、夢中になっていたのでした。 ただ、単に夢の中にいるだけ。それだけでした。 何度目かの沈黙。 2人とも、飲み物を2回くらいおかわりしていました。 にこにこしていた彼女が、ふと、窓の外を見やり。 「・・・ああ、もう、外が暗くなっちゃうんだ」 「そうだね。 ・・・もう、冬だからね」 それは、現実が訪れる瞬間でもありました。 彼女が、小さくため息をつきました。 「・・・ごめんなさい。土日に絶対来てね、とか言っておきながら、あたしの方が行けなくて・・・」 「あ、いや、別に・・・」 ずぞぞ、と、ストローが鳴りました。彼女が飲んでいたオレンジジュースがなくなった知らせ。 空っぽになったコップを、彼女はぼんやりと眺めているようでした。 「あの、土曜日は、両親と学校に説明に行ってて・・・ 長引いちゃって」 「・・・転校の説明?」 こくり、とうなずいて。 あっさりと、次の言葉を吐き出して。 「・・・もう、ホントに決まっちゃいそう」 「・・・そ、そっか」 「そんで、学校からおうちに帰ったら、不動産屋さんが来てて」 「・・・」 「おうち、貸しちゃうんだってさ」 「イギリスに行ってる間?」 「うん。 ・・・最低でも、1年間」 それが長いと思えるだけの感覚は、まだ私にもありました。 そして、私が長いと思えるだけの時間は、女の子にとって、私以上に長くて。 「・・・1年かぁ」 「最低でも、だって」 私のつぶやきに彼女は答え、カラカラとストローでコップの中の氷をかき混ぜました。 めがねの奥の瞳が妙に大人びて、それがひどく不自然でした。 「そろそろ・・・ 帰らなくちゃ」 「ああ・・・ ごめん。気付かなくて」 私も、そろそろ本気で仕事に取り掛からないと、今日も日付が変わってしまいます。 レジで、あたしも、と言い張る彼女を抑えて、清算を済ませて。 夕暮れの時間はもう過ぎ去った時間。昼間の暖かさはまだなごりを残し、思ったほどには冷えてはいませんでした。 けれども、彼女の薄着ではやはり寒く感じるようで、彼女は、う〜、とうめいて、身をすくませます。 「寒いよね」 「ううん。大丈夫だよ」 「・・・送ろうか?」 「ううん。近いから、大丈夫」 「これから駅に行くんだけど・・・ 途中まで、ね」 「・・・ありがとう」 2人で歩く、夜の道。車の音だけが、響き渡る道。2人とも、何もしゃべらなかったのは、その道行きの意味を、十分に知っていたからでした。 もうすぐ、交差点。地下鉄の駅は、そのすぐそばに。 彼女が、両手を顔に持っていって、はあー、と息を吹きかけました。 思わず、微笑んでしまって。 「はい」 私は、左手を差し出しました。 それを、不思議そうに見詰める、彼女の瞳。 「寒いんでしょ? 少しはあったまると思うよ」 「・・・あ、ありがとう」 彼女はおずおずと右手を差し出された左手に重ね、そっと、まるで生まれたての子猫の小さい頭をなでる時のように、ほとんど力を入れることなく。 そして、また2人は歩き出して。 女の子は、その間、ずっと前だけを見詰めていて。 何かを強く思っている彼女の心が、闇に吸い込まれていって。 そして、それは、不意に。 「ねえ」 「なに?」 「あたし・・・ 一人暮らししようかな」 「・・・え?」 いきなりな話に、私はびっくりして、つないでいた手を離しかけました。 それを、彼女が握って止めました。 「ちょっと前から思ってたの。一人暮らしは出来ないかな、って」 「そ、それは・・・」 現実に急転した話についていくことが出来ず、口ごもる私。それを、どう受け止めたのか、彼女は勢い込んで話し始めました。 「あたし、ほら、お料理もお洗濯もできるし。バイトもできるし、貯金もあるし。そんな高いところじゃなければ、何とかやっていけるかな、って思って」 風が、2人の間をすり抜けていきました。 「ほら、高校生でも、一人暮らししている人っているじゃない? あたしも、やってみようかな、って・・・ きっと難しいかもだけど、それでも・・・」 風がまた、2人の間をすり抜けていきました。 「やっぱり、イギリスになんか行きたくないよ。全然違うところだし、言葉だって、お父さんに昔から英会話をやれって言われてたから、おかげで少しは分かるけど、そんなにしゃべれないし。友達と離れるのやだし・・・」 黙ったまま、私は彼女を眺めていました。 一生懸命、自分の考えを話す彼女。そう言えば、彼女の視線は、時にこんな光を放って輝いていたこと、それを、思い出して。 彼女はそこでうつむいて。 私を見上げて。 何か言おうとして。 私の目に、何かを感じ取って。 口を閉ざしました。 ただ、一言を、残して。 「・・・行きたくないの」 私は無言で歩き出しました。手をつないだまま。 あわてて彼女はついてきて、左横から、おどおどと私を見て。私の顔を見ることが出来ずに、私の肩のあたりを見て。 すぐに、地下鉄の駅。 私は、そこで手を離しました。 「・・・気をつけて、帰るんだよ」 「う、うん・・・」 そして。 私が、責任を持って言わなければならないこと。 「それと」 「・・・」 「一人暮らしは、無理だと思う」 「・・・」 彼女は、やっぱり、という面持ちで、それでも悲しげに目を伏せました。 「・・・そっか。やっぱ、ムリって思う?」 「思う」 「そっか・・・ そうだよね」 彼女はうなずきました。けれども、納得したからうなずいたのか、それとも私の答えを予想していたからうなずいたのか、そこまでは、地下鉄に降りる階段の入口、やや弱くなった光では、読み取れませんでした。 「ごめんね・・・ 変なこと言っちゃって」 「・・・気をつけて」 私は手を挙げると、下り階段に足をかけました。コートの裾が、名残惜しそうに彼女の方へはためきました。 「・・・ま、また、逢えるかな?」 彼女の声が背中から私を追いかけてきて。 それに、私は、また手を挙げることで、答えて。 階段を下って、切符を買い、電車に乗り込んだのでした。 |
第12回 〜笑顔を〜 |
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やはり、彼女には元気に笑っていて欲しいもの。 そう、思うのです。 笑顔がまぶしい彼女も。 まっかになったほっぺを押さえる彼女も。 ふと目を伏せる彼女も。 泣きじゃくる彼女も。 彼女は彼女。 それでも。 笑顔でいる彼女が一番。 だから、私は、今日これから、彼女と一緒に遊びに行くことにしたのです。 彼女に、心からの笑顔をたたえてほしいから。 彼女に、思い切り笑って欲しいから。 先週の、16日の日曜日。午後3時ころ外に出ると、やっぱり快晴でした。関東の冬に特有の、乾燥した快晴。 そのころ私は仕事が危険な状態で、まったくと言っていいほど余裕がなくて。 栄養ドリンクと煙草、コーヒーのペットボトルをまとめて買って、それで何とか休日出勤を乗り切ろうとして。 何の気なしに、近所のファミリーマートに入ったのでした。 本当に何の気なしに。 セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子のことを思うことなく。 「いらっしゃいませっ」 私を迎えたのは、とても聞き覚えのある声。 レジを見ると、めがねと制服の襟をを直しながら、あの女の子が。 軽く微笑んで、もう一度、小さくお辞儀をしていました。 ああ、いたんだ。 私は、いつものように、雑誌のコーナーへ。 別に何も読みたい本はないのに、雑誌のコーナーへ。 それは、ここでの習慣になっていたのかもしれませんでした。 それは、あの女の子が、ぱたぱたと、小走りに私の方へ駆けてきていた時からの、習慣だったのかもしれませんでした。 けれども、今は。 彼女が駆けてくることはないのでした。 そっと、けれど何かさみしげに、冬の厳しい寒さの中に珍しく吹いた微風が降り積もった雪の上を流れてくるような。 そんな、歩き方でした。 「お仕事が忙しそうだから、もう来れないと思った」 「・・・そっか」 私は、雑誌の整理に来た彼女を見ることなく、彼女の問いかけに、ただ声だけで返しました。 女の子は、私の隣にしゃがんで、何となく雑誌を並べなおして。 しばらく、無言の空気。 それは、けれども決して穏やかなものではなくて。懐かしく思えるようなものではなくて。 もう、すでに全てが終わってしまった後のような、そんな空気。 彼女が立ち上がり、ラックに立てかけられている雑誌の整理を始めて、そこで私はそっと彼女の横顔を見ました。 手に持った雑誌を手際よく、少しずつずらしながら並べていくその視線は、なぜか雑誌ではなく、ガラスの向こう、人がまばらに通る歩道のコンクリートを、見詰めているように思えました。 まるで、何かを知った後の瞳。 妙に大人びた、冴えた瞳。 「不動産屋さんに訊いたら、やっぱり、高校生の一人暮らしはムリだって」 「・・・」 「親の同意が、要るんだって」 それは、余りにも予想していた答。 「保証人? それになってくれる人がいないと駄目だって」 「・・・そうだね」 「知ってたら、教えてくれればよかったのに・・・ そんな子供みたいなことを言わなくて済んだのにな」 それは、言葉だけを追えば私を責めていたけれど。 彼女があまりにもさらりとそれを口にしたので。そう言った時の彼女の表情は、間違いなく微笑んでいたので。伏せた瞳は決して私を見ることがなかったので。 そんな風には全然聞こえなかったのでした。 「さて、と」 女の子が、一通り整理を終えて、手をパンパンとはたきました。 「これからお仕事?」 「うん」 「そっか・・・ 忙しそうだから、あたしは戻るね」 「・・・」 「これでも、あたしも忙しいのよ。年末だから、コンビニもいろいろ」 初めて、お互いが目を合わせました。 私が口を開くよりも早く、彼女が、笑いました。 「クリスマス、空いてる?」 あまりにも自然過ぎる、その口調。 あまりにもさりげなさ過ぎる、その微笑み。 あまりにも真正面過ぎる、その誘い。 「忙しいかな・・・?」 「・・・わからないなぁ。今の仕事が終わればいいんだけど」 なぜ断らなかったのか。 その時は、彼女の物言いに、表情に、その言葉に、ただ戸惑って。 それだけでした。 「あたし、もう、絶対に行かなくちゃならないから」 いよいよその微笑みは深くなって。 何でそう言いながらあなたは笑えるの? 「もう、あと1年くらいはこっちに戻って来れないとかになっちゃうから」 何でそう言いながら笑えるようになったの? 「あたしに・・・ 思い出、くれないかな・・・?」 何で微笑んでいられるのか。 ちょっと前までは、あなたはすごく動揺して、子供みたいにいろいろなものに押し流されてしまいそうで。 何かあったらすぐにくず折れてしまいそうで。 それでも、ひとつだけ、わかったことがありました。 今、きっと彼女は何があってもただ笑っているんじゃないか、と。 今、きっと彼女は何が起こってもただ笑って受け流すことができるんじゃないか、と。 今、きっと彼女は何が降りかかってきてもただ笑って歩いていけるんじゃないか、と。 それが、彼女のあの笑顔を奪っているんじゃないか、と。 私に元気をくれる。 私に温かさをくれる。 私にいろいろな想いをくれる。 あの、笑顔。 それは、彼女に取り戻されるべきなのではないか。 そう、思うのです。 だから。 私は、これから、彼女に逢いに行ってきます。 何を見るのかは分からないけれど。 私は、彼女に逢いに行ってきます。 きっと、彼女は、この寒い中、手に息を吹きかけながら、私を待っているに違いないから。 |