ファミリーマートで捕まえて

〜Dreaming〜




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第1回

〜はじめまして〜
深夜の2時ころ、眠気覚ましに近くのファミリーマートに行きました。
近代麻雀があったのでそれを何の気なしに読んでいると、どさどさどさっ、と物の落ちる音。
見ると、セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た女の子の店員が、あたふたと崩れた本を片付けていました。慌てているのか、ちょっと眼鏡がずれているのが微笑ましかったです。
「す、すいません!」
「いえいえ」
近代麻雀を置いて、落ちて散らばってしまった本を何冊か拾って、彼女に渡します。
ますます縮こまって肩をすくめる彼女は、手渡す時ほんのちょっと手が触れると、びくっとして手を引っ込めてしまいます。それを見て、また思わず笑ってしまいました。
「ご、ごめんなさい! ほんとわたしったらおっちょこちょいで・・・」
「いやいや、かわいくていいんじゃないの?」
何の気なしに言った台詞が、彼女のほほを見る見るうちに真っ赤に染めていきます。ちょっと驚いて彼女を眺めていると、やがて彼女は、眼鏡を直して、真剣な顔で私を見ました。
「あ、あの。 ・・・いつもいらっしゃってくれてありがとうございます!」
「へぇ・・・ いつも見てたの?」
「あ、い、いえ、じゃなくて、は、はい!」
「ふぅん。 ・・・ね、今一人?」
「あ、はい」
「どうせ暇でしょ? ちょっと話そうよ」
思わずいたずらしたくなるようなかわいらしさをもう少し見ていたくて、それから小一時間ほど彼女と話しこんでしまいました。

これが、今日の更新が遅れた理由です。




第2回

〜おにぎり〜
ついさっき、家の近くのファミリーマートに煙草を買いに行ってきました。
平日の深夜こんな時刻になると、コンビニの店内に店員が誰もいないときがあります。ピンポ〜ン、と来客を知らせるシステムが、そこにはないのです。
新発売の、ナタデココが入っている「巨峰ジュレ」というゼリーを買って、レジに向かいます。
「・・・すいませーん」
出て来ません。
「すいませーん」
バタバタッ、と音がして・・・
「ふぁいッ! (むぐむぐ) ただいま・・・ あっ!」
出てきた女の子は、一瞬だけ立ち止まりました。すぐに後ろを向くと、胸を叩きながら何かを飲み込んでいる様子です。
振り返ったのは、セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。びっくりして、もう耳までまっかに染まっています。
「・・・うあぁ」
言葉にならない声。ちょっと大きめの眼鏡を、照れ隠しなのでしょうか、くっ、と直し、小さめの唇をちょっとかみしめながら、レジに入りました。
「はい、これお願いしますね。あと、セーラム・ピアニッシモもお願いします」
こくん、とうなずいたその動作で、髪が微かにゆれました。後ろを向いた女の子のうなじは透きとおるようで、煙草を取る手もほんとうに白いのです。
「・・・す、すいませんでした。 ・・・みっともないところ、見せちゃって」
うつむいて、女の子はささやくように謝りました。
「あはは、いいっていいって。そんで、何食べてたの?」
「あ・・・ いやぁ・・・」
ますますまっかになってしまいます。よほど恥ずかしかったのか、レジを打つ手を止めて眼鏡をかけたまま手で顔をおおってしまった女の子を、やっぱりもうちょっといじめてみたくなってしまいました。
「ね、なぁに?」
「・・・うう」
顔をおおっていた手は外したけれど、ずっと下を向いたまま、彼女は、
「あ、あの・・・ (ごにょごにょ)」
「え? 聞こえないよ?」
「・・・お、おに・・・ ぎり」
私が思わず吹き出してしまったので、彼女はもう頭から湯気が出そうなほどまっかになりました。
それでも何とかレジを終えて、私はビニール袋を持ちます。
「あ、ありがとうございました・・・」
最後の方がほんとに消えてしまいそうな震える声で、彼女はおずおずとほんのちょっとおじぎをします。
自動ドアが開いて、私は立ち止まって振り返りました。
不思議そうに私を見詰める彼女に向かって、
「またね」
私が手を振ると、女の子は、二回だけまばたきしてから、まっかになったまま、そのかわいらしい顔に花がほころぶように笑顔が広がって、胸の前で小さく手を振り返してくれました。
「ま、またどうぞっ!」



やっぱり今日もこうして更新が遅れてしまったのでした。




第3回

〜誰?〜
いつも夜にばっかりファミリーマートに行っていますね。
今日は、久しぶりに昼間にそこへ。いや土曜日のこの時刻に家にいることができるなんて幸せ。

で、いつものように煙草を買いに出かけました。
昼間に見るファミリーマートの看板が夜とは違うような気がして、ちょっと店の前で立ち止まって眺めていました。
と、レジの中で、楽しそうに談笑している店員が二人。
すぐに目に入ったのは、その片方があの女の子だったからなのでしょうか。セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。
その隣に、髪の毛を金色に染めて、無精ひげを少し生やした若い男。
二人は、余り店が混んでいないからでしょうか、なにやら笑いあっています。
あ、また女の子が笑った。楽しそうに。
くったくのない笑い顔でした。
一瞬だけ、私の胸にチクリと何かが生まれて、それはすぐに消えてしまったけど・・・
店には入らず、店の前にある自動販売機で、煙草を買ってしまおうかとも思いました。

その時、女の子がふと店の外に視線を移し。
私を見つけました。
はためにも、息を飲むのが分かりました。
隣の金髪の男は、それに気付かず話し掛けています。だんだん答え方がおざなりになっていく、女の子。

私は、店の自動ドアの前に立ちました。
ちょうどレジにお客さんが来て、女の子はその応対を始め、男はレジから出て棚の整理をしに行ってしまったのでした。

ヨーグルトとジュースを持って、レジに向かいます。レジにはあの女の子。そんな理由もないのに、何か緊張感のようなものが高まっていくような気がして。
「・・・お願いします」
「はい」
女の子の声は、いつもよりも小さく、他人行儀でした。
「あ、あと、セーラムピアニッシモ、お願いします」
「はい」
ピッ、と鳴るカウンタの音が、妙に響きます。
お金を置いて、お釣りを貰います。女の子は、できるだけ手を触れないように、ちょっと上からお釣りを落とす、女の子。ずっと下を向いていて、表情が読めないけれど・・・
でも、白い肌が染まっていることは分かりました。

ビニール袋を手に取って、私はレジを離れかけます。
「あ・・・」
女の子が、絞り出すような声を出しました。
「あ、あの・・・ ストロー、入れ忘れてしまって」
ストローは確か入っていたような。
それでも私はレジに戻り、女の子がストローを入れるのを待ちます。
いつもよりゆっくりと、女の子がストローを取って袋の中に入れました。
「あ、あの」
下を向いたまま、女の子が。
「なに?」
「み、見てました?」
「・・・なにを?」
その私の答で、女の子は、私が見ていたことに気付いたようでした。
「・・・あ、あの!」
いきなり、強くなった声。
彼女は顔を上げて、私をまっすぐ見据えました。ほほが、まっかになっていました。
「あの人、ただのバイト友達ですから!」
「え?」
「ここのバイトの人ですから!」
そう言うと、女の子はまたうつむいて、だまってビニール袋を渡してきました。
それを受け取って。
なぜか、胸の中がすっとして。
「あ、ありがとう」
「・・・」
「言ってくれて、 ・・・ありがと」
今度の息をのむ音は、気付いた私に輝く笑顔を見せてくれました。
「は、はい!」
「また、来ますね」
「はい! ありがとうございました!」
ちょっととまどって、彼女は胸の前で小さく手を振りました。




第4回

〜好きに なるから〜
今日は、これから本日2回目のファミリーマートに行くこととなります。
その理由はですね・・・



今日はほんとうに疲れ果て、それでもこれから家で書類を読まなければいけないので、気付け薬に栄養ドリンクと煙草を買いに、家の近くのファミリーマートに行きました。
深夜の11時ちょっと前。だいたいこの時刻だと、彼女はレジに入っているはずです。セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。
ファミマの看板が見えてきます。あまりへたった姿は見せたくないので、無理をしてラップを聴きながら、自動ドア越しにレジを見ました。
煙草を整理していた女の子が、こちらを向きます。すぐに、ぱあっと輝くような笑い顔。
私は、ちょっと手を振って、中に入りました。
「いらっしゃいませっ!」
元気よく彼女がお辞儀をします。二つに結んだ髪のしっぽが、ぴょこん、とはねあがりました。ラップなんて必要なかったかも、と思いました。


客が一人もいない中、栄養ドリンクとヨーグルトを取って、レジに向かいます。その間、彼女はずっとこっちをちらちらと見ていて、はやくこないかな、と言っているように、そわそわと落ち着きがありませんでした。
レジに、品物を置きます。
「お願いします。 ・・・あと、」
「はい! セーラム・ピアニッシモですね?」
くるりと後ろを向いて、女の子は煙草を取ってくれました。
「はい、どうぞ。 ・・・でも、あまり吸ってちゃ身体にわるいですよ」
ピッ、とレジを打ちながら、女の子はまるい眼鏡の奥から私の顔をのぞき込むように、いたずらっぽく言いました。
「・・・気をつけます」
苦笑いして、私は彼女がヨーグルトを袋に入れている間、ラップのリズムに身を預けていました。


「・・・なにを、聴いてるんですか?」
女の子が、不思議そうに訊いてきました。それはそうでしょう。私はラップを聴いているとどうしても身体が揺れてしまうから。
「・・・ラップですよ」
モーニング娘。を聴いてなくてよかった、と思いました。
「ラップ? ・・・えーと、ドラゴンアッシュみたいなのですか?」
「うーん。まあそんなもんですかね」
「へえ・・・ どんなのなんですか?」
興味しんしんに彼女はレジを打つ手を止めて私を見詰めます。
「そうだね・・・ ドラゴンアッシュは聴くの?」
「うー・・・ あんまり」
「そっかぁ」
「どんなのか、少し聴かせてください」
今掛かっているのは、2PACの ”Changes”。ばりばりの洋楽ラップ。
「はい」
イヤホンを外して、レジの向こうの彼女に渡します。けれども、私の使っているSONYのイヤホンは長さが50センチしかないのです。
彼女はそれを受け取ると、一瞬戸惑い、それでも身を乗り出して、私の胸に顔を近づけてイヤホンを耳につけました。彼女の髪の香りが、ふわりとただよってきました。
しばらく、女の子は私の胸の近くで曲を聴いています。私は、いつもとは違う角度に少しだけどきどきしながら、女の子の頭を見ていました。


「・・・あ、ありがとうございました」
ちょっと困ったような顔。
「わかった?」
「んーと。 ・・・え、英語でしたよね」
「そりゃそうだけど」
「英語がちょっと聴き取れなくて・・・」
「ま、そうだろうね。私も分からないし」
微笑ってイヤホンを首に掛けビニール袋を持った私を、彼女の視線が引き止めました。
「あ、あの」
「なに?」
「・・・なにかCD、貸してくれませんか?」
「ラップの?」
こくり、とうなずく彼女。
「むりだよ〜」
「ううん。貸してください。 ・・・英語、がんばりますから」
「いやそういう問題じゃなくって・・・ こんな曲、好き?」
彼女はちょっとうつむくと、小さい口をとがらせました。
「・・・好きに、なるもん」


確かに、そう聞こえたのです。
それが、信じられなくて。
「・・・え?」
女の子が、顔を上げました。まっすぐに、私を見ます。
「・・・もっと、あなたのことを知りたいです」
彼女の手は、ぎゅっと握り締められていました。
そしてやっぱり、まっかに染まったほほ。
「いつも来てくれるの、あたし、とてもうれしいんです。 ・・・けど、それだけじゃ・・・」
言いかけて、止まってしまう。視線を、そらしてしまう。
それが、彼女でした。


「うん、分かったよ。今日、持ってくるよ」
「え・・・? そんな、ヒマなときでいいですから」
「ううん。思い立ったが、って言うでしょ?」
顔は上げなかったけれど、彼女はゆっくりと、何かをかみしめるように笑いました。
「・・・ありがとう。待って・・・ます」



今、彼女のために、ベストセレクションを、焼いているのです。




第5回

〜贈り物〜
今、私は迷っています。
机に置かれた小さな箱を、眺めています。



明日納期の仕事のために、今日も出勤。
それでも終わらず、とりあえず気分を変えようと、家でやることにしました。やっぱり気付け薬を買うために、午後11時頃、家の近くのファミリーマートに向かいます。
向こうに見えるファミリーマートの明るい看板が、私の心を少し浮き立たせてくれました。
店の前に、人影が一つ。長いほうきと、ちりとりを片手に、店の前を掃除しているみたいです。
その影が動きを止めて、きょろきょろとあたりを見回しています。
私の方が、先に気付きました。店から洩れる灯りが、彼女の姿を照らしてくれます。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。
ほうきを持つ手を止めては、何かを探しているように、あっちを向いたりこっちを向いたり。
思わずくすくすと笑いつつ近づいていくと、やがて、彼女もこちらに気付きました。
こっちをじっと見て、ほうきを左手で抱きかかえると、ちょっと戸惑うように、右手を軽く振りました。まるで、「手・・・ 先に振っても・・・ いいよね」と思いながらそうしたように。


「あの・・・ お帰りなさい!」
いつものように、元気よく女の子はお辞儀をします。夜の中、店の光に照らされて私に笑いかけてくる彼女が、いつもよりもかわいらしくて。
「あ、ありがと・・・ あ、私ちょっと買い物していくけど?」
「あ、はい。いつもありがとうございます」
そして、女の子はそこでちょっとうつむきました。何か言いたそうに、ほうきを両手で抱きかかえて。
そして、顔を上げて。
「あの・・・ ほんの少しですから、お買い物終わったら、ここに来てくれませんか?」
「店の前?」
「はい・・・ あの、CDのお礼がしたくて」
この前女の子にあげた、ラップのCDのことでしょう。
「うん。わかったよ」
いつも、こういう時に彼女は、まるで太陽のようににっこりと笑ってくれます。
「ありがとうございます!」
今日も、そうでした。


買い物を終えて外に出てくると、女の子が、胸に何かを大事そうに抱えて、店の外で待っていました。
私は、店の目の前からちょっと移動し、彼女が話すのを待ちます。
彼女は、おずおずと歩いてくると、私の前で立ち止まりました。
「・・・あ、あの。CD、ありがとうございました」
「いえいえ。ちゃんと、聴けた?」
「あ、はい! 大丈夫です・・・」
そこで女の子は一息つくと、そっと、胸に抱いたものを私に差し出してきました。
「・・・それで、その、CD、ありがとうございました・・・ その、お礼、です・・・」
手のひらに載るくらいの小さな箱。深い紫色のラッピングに、淡いピンク色のリボンがていねいに掛けられた、小さな箱。
「ま、毎日、おつかれさまです。おうちで、食べてください・・・」


私がそれを受け取ると、彼女はほっとした微笑みで、またお辞儀をしました。
「それじゃ、あたし戻りますね」
「あ、待って」
彼女の足が止まりました。
「ここで、開けていい?」
「えぇっ?」
ちょっとだけ彼女の声が裏返って。
「え、あ、う・・・ あ、あの、おうちでゆっくりしてから」
「だってせっかくのプレゼントなんだから目の前であけなきゃ悪いじゃない」
「わ、悪くないですっ。あ、あの、ぜひおうちで・・・」
おろおろする彼女を尻目に、私はリボンをそっと外して、包装を静かに解きました。
「ひゃあぁぁ」
中に入っていたのは、小さい箱にいっぱいの、ハート型のクッキー。


「ふえぇぇ」
そこにしゃがみこんでしまいそうな彼女に、私は笑いかけました。
「ありがと。とっても嬉しいよ」
ぶんぶんと首を振る女の子の顔はやっぱりもうまっかです。
「・・・食べてみていい?」
答も聞かずに、私はひとつ、口に入れます。
女の子がもう顔で手をおおって、それでも心配そうに、指の間からこちらをのぞきこんでいました。
サクッ
気持ちいい歯ごたえ。焼き加減は抜群です。
そして、口の中に・・・
「う」
微妙な味。
甘くないです。何か、こう、独特の風味というか・・・
もしかして。
まさか・・・
「ど、どうですか?」
沈黙に耐え切れなくなったのか、彼女が手を顔から外して訊きました。
「・・・う、うん。おいしいよ」
一瞬の戸惑いが、彼女に息を飲ませました。
「・・・え? 何かおかしいですか?」
「いや、そんなことないって。おいしいよ」
「ううん。おかしいんです! ちょっと、あたしにも食べさせてください」
「いや、何でもないってば・・・」
引っ込めようとした私の手から、女の子はクッキーの入った箱を奪い取って、ひとつ、口に入れました。
沈黙。
「う」
女の子が、眉をひそめました。
「こ、これって・・・ なに?」
またちょっとかんで、女の子は目をまんまるに見開きました。
箱のクッキーを、じっと見詰めます。
そして、
「や、やだ・・・ あたし、お砂糖とお塩間違えちゃった!」


や、やっぱり。
「いやあぁぁ・・・ そんなぁ」
そのまま彼女はほんとうに地面にへたり込んでしまいました。
苦笑いをしつつ、私もしゃがんで、彼女の顔を見ようとします。
でも、女の子は、クッキーの箱をぎゅうっと抱きかかえて、思い切り身体をちぢめて。
「ご、ごめんなさい・・・ こんなの、たべさせちゃって・・・」
「気にしないで・・・ ほら、箱、ちょうだい?」
彼女は首を激しく振りました。
「だめぇっ! こんなの・・・ こんなの・・・ だめよぉ」
「だってそれ私にくれたんでしょ?」
「だめっ! ・・・っ、ひっく、 ・・・こんなのあげられないっ」
やがて、押し殺した嗚咽が聞こえてきました。顔をひざにうずめたまま、彼女は何度も何度も背中を震わせます。
「ひっ・・・ っく・・・ ご、ごめんなさい・・・ ごめんなさい・・・」
ごめんなさい、しか言わない彼女の頭に、私は、そっと、手を置きました。なでることもせずに、ただ、手を置きました。
「それ、どうするの?」

「っ・・・ こんなのたべられないもん」
「捨てちゃうの?」
「・・・」
「そんなことしたら、許さないからね」
はっと息をのんで、女の子が顔を上げました。
涙できらきら瞬くひとみが、私をまっすぐに見詰めます。
「それ、私のために作ってくれたんでしょ?」
こくり、と頷く彼女。
「だったら、ちょうだい」
「だって・・・ おいしくないもん」
「きみの気持ちを捨てちゃうなんて、許さないよ」
うつむく、彼女。
「それ、私のために作ってくれたんなら、ぜひとも欲しいな」
「・・・たべるの?」
「もちろん」
「おいしくないよぉ・・・」
「それよりも、あなたの気持ちの方が、大事なんだけど?」
そのまま、私は彼女の頭に手を置き続けました。彼女の体温が、そっと手のひらを温めていきました。


「・・・ごめんなさい」
彼女は、そっと、箱を差し出しました。差し出す手が、ふるふると震えていました。
「ありがとう」
笑って、私はそれを受け取りました。
「大事に、食べるね」
こくり、とうなずいて、彼女は私を見詰めました。まだ泣き濡れた、その瞳。
「ほら、立って。お仕事に戻らなくちゃいけないんじゃない?」
「ああっ!」
あわてて彼女は立ち上がると、ごしごしと涙をふきました。
その頭を、ちょん、とつついて、
「ほら、元気出して」
「は、はいっ」
何だか号令でも掛けられたように、彼女は、ぴっ、と背筋を伸ばしました。
「ほんとに、ありがとうね」
「・・・ごめんなさい」
「だからそれはいいんだって。作ってくれた、っていうのが一番でしょ?」
「・・・ありがとうございます」
「ほら、元気!」
そろそろ帰らなければいけません。私は、コンビニの袋を持ち直して、もう片手に小さい箱を大事に抱え、彼女に会釈をします。
「じゃ、またね」
「・・・はい」
元気が、まだ足りないです。
「・・・また、作ってね、お菓子。待ってるよ」
その時彼女の顔に広がっていった笑顔は、たとえようもなく、きれいでした。
「は、はいっ!」



迷っているんです。
明日の重要な会議の前に、これを全部食べていいものかどうか。




第6回

〜風邪〜
かなり切羽詰まったスケジュールの中、私はとうとう風邪を引いてしまいました。
それでも、病院に入らなければ健康、というのがルールですから、無理してでも出勤。ぐったりした、午前1時の帰り道のこと。
とぼとぼと歩き行く先に、見慣れたファミリーマート。今日は、熱が出て視界が定まらないせいか、看板の光もいつもよりぼおっとしています。この手の乾燥した感じと、身体のだるさからすると、今きっと7度5分くらいです。
そういえば今日は夕食を食べていません。少しでも身体に入れておかないと、明日が危ないです。
ため息をついて、店に入りました。


「いらっしゃいませ!」
もう聞き慣れた声。この声が聞けない時に、違和感すら感じるようになってしまった、元気な声。
レジの向こう側で、こっちを見てゆっくりと、大輪の花が開くように笑った、あの女の子。セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子。
私も、できるだけ元気に見えるように、笑いかけました。すると、彼女の方から、胸の前で、ふるふるっ、と手を振りました。手だけ振っているはずなのに、まるで彼女の身体中が、嬉しくてふるえているようにも見えて。
そういえば、彼女の顔は、もううっすらと桃色に上気していました。


パンすらも食べられないと思い、やっぱりいつものジュースとヨーグルトを持って、レジに向かいます。彼女は、私が来るのを心待ちに、手にはもうセーラム・ピアニッシモを携えていました。
「はい、お待たせ。お願いしますね」
「いつもありがとうございます。 ・・・今日は、煙草はどうしますか?」
「ありがと。お願いします」
「はい!」
いつも彼女は、ピッ、とレジにデータが入ると、ちょっとだけ身体に力が入ります。ん、よしっ、と、時々つぶやくのも聞こえます。ちゃんと計算されているのを確認している姿が、すごく微笑ましいのです。
ビニール袋に品物を入れて、持ち手のところをくるくるっとねじり、笑顔とともに渡してくれます。今日は、やっぱり彼女の顔がピンク色にぽおっとしていて、ほんの少しかしげる首がいつにも増して可愛らしく見えました。
「はい。お釣りです」
「ありがと」
私の手を包むように渡すその手が、熱くて。


え・・・?
熱が出ている私よりも、熱い・・・?
「ち、ちょっと・・・!」
びっくりして、女の子を見詰めます。
まるい眼鏡の奥のひとみが、一瞬だけ私を見て、すぐに、外れます。
それで、確信しました。こっちもぼおっとしてて気がつかなかったけれど。
「・・・風邪、ひいてる?」
女の子は、ぴくん、と動きを止めて、レジの中でうつむきます。
やがて、弱々しく、こくり、とひとつだけうなずいて。
「だ、大丈夫なの? だいぶ熱があるんじゃ・・・」
「ううん、大丈夫! ちょっと、熱があるだけ」
熱がある私よりも熱いのですから、そんなちょっとであるはずがありません。
「ちょ、ちょっと熱がひどいと思う。 ・・・ほら」
「ひゃっ」
レジ越しに熱をはかろうと伸ばされた右手に、女の子はびっくりして一歩身を引いてしまいました。
「ほぉら。はかってあげるから」
「だ、大丈夫です」
「だって熱あるよ?」
「ううん。ないです。元気ですっ」
無理に微笑もうとして・・・
「・・・っくしゅんっ!」
「ほら。完全に風邪じゃないか」
「あうう・・・」
「ね。ほら、おいで?」
彼女の視線が床をしばしさまよい、そして女の子は、一歩だけ前に出ました。
うつむいたまま、胸のあたりで両手をぎゅっと握りしめて、唇をかたく引きしめて・・・ 私の手を、待っています。
できるだけそっと、たんぽぽの綿帽子を手のひらに載せる時のように、私は彼女の額に手を当てました。
「・・・」
当てられた瞬間、女の子が声を出さずに、ぴくん、と震えます。
心なしか、さっきよりも熱が上がっているように感じました。


「うーん。やっぱり熱あるよ」
「はふぅー」
手を離すと、女の子はずっと止めていた息を吐き出して、弱々しく笑いました。
「・・・うん。ちょっと、つらいかも」
「そういう時は休まなきゃ」
「・・・だって、お仕事だもん」
うん、とうなずいて、女の子はガッツポーズを作りました。
置いてあるビニール袋を取って、私に差し出します。
「はい!」
「・・・もう、分かってないなぁ。 ・・・もう一回、熱はかろうか?」
「・・・え?」
目をまるくする彼女の頭を引き寄せて、私はおでこで熱をはかろうとして。
「ひゃああぁ!」
思い切りびっくりして、女の子はレジの後ろの壁に張り付くように、身を引きました。
「うわ、うわ・・・」
「あははは。冗談だよ」
胸の前の手がぷるぷるとふるえているのがとてもかわいくて、思わず笑ってしまいます。放り出されたビニール袋を取って、私はくすくす笑いながら手を振りました。ちょっとびくびくしながらも、女の子もつられて手を振ります。
「じゃ、またね」
「は、はい・・・」
歩き出した私の鼓膜を、ため息が一つ打ちました。
「・・・冗談、だったんですか・・・?」


振り向くと、女の子が、あわてて首を何度も振りました。
「ううん! なんでもないの! ありがとうございましたっ!」
ぴょこん、とお辞儀をする彼女に、また私は歩み寄ります。
「な、なんですかっ?」
「ほんとに、もう一度はかってみる?
「ふええぇ」
泣きそうなのか笑いそうなのかよく分からない表情で、でも女の子は完全にまっかになった顔を両手でおおってしまいます。
「あはは・・・ ね、気をつけてね」
自分のことはとりあえず棚に上げて、彼女に言います。手でおおわれた、その顔に向けて。
「ちゃんと、治すんだよ?」
そっと、彼女は手を外しました。上目づかいに、私を見ます。
そして、大きくひとつ、うなずきました。
「は、はいっ! ありがとうございましたっ」
その声は、掛け値なしに、いつものように元気いっぱいでした。





Interlude1

〜雨〜
今日の東京は雨でした。夕方ころには雷も鳴って、この中を帰るのが少しイヤになったのですが。
みごと8時に帰途につくことができました。何日、いや何週間ぶりだろう、と、とても新鮮に感じました。


駅から、家へ向かって歩きます。雨は大粒で、風も少し強いけれど。
傘をさして、足取りも、少し軽いかもしれません。いつもはスーツが濡れるのが好きではなくて、わざわざ雨が止むのを待っていたりするんですが、今日は、とにかくこんなに早く帰れるのが嬉しかったのです。
風がこんなに強く吹いて、傘を持っていかれそうになっても、気にならないほど。


「うわぁ」
声があがりました。
前を歩いていた女性の傘が、風に吹き飛ばされてしまいました。淡い水色の傘が、アスファルトの水たまりをコロコロと転がっていきます。
女性は、あわてて傘を追いかけました。あと一歩、というところで、風がまた通り抜け、それは転がって。
おやおや、と笑いかけて、私は思わず、あ、と声を出してしまいました。
雨の中、くるくる回る傘を追いかける彼女に、見憶えがありました。
「・・・あはは」
制服を着ていなくても、セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねた後ろ姿は、見慣れたいつもの彼女でした。ファミリーマートで私を元気よく迎えてくれる、笑顔の似合うあの女の子。今日は、どうやら学校の制服のようでした。
まだ、傘を拾えません。そういえば彼女はおっちょこちょいなところもあったな、と思って、私はまた笑ってしまいました。


ようやっと彼女が追いついたところに、私は歩みよって、傘を差し掛けます。
「あ、ありがとうございます・・・ うわっ!」
お礼を言いかけ、彼女が私に気付きました。
「ひ、ひゃあ・・・ ど、どうもありがとうございますっ」
せっかく取り戻した傘を放り出して、ぴょこんとお辞儀するその姿は、まるでレジの中にいる時のようでした。
そんなに長い間ではなかったのですが、彼女はかなり濡れてしまっていました。
スニーカーに黒の靴下。そして、どこかの学校の、セーラー服。真っ白いスカーフに、長袖、紺色の冬服でした。それが、雨でかなり重そうでした。
「ほら。傘持って」
「は、はいっ!」
「そんなに濡れちゃって・・・ あそこでちょっと拭いてきなよ」
「はいっ」
近くのビルの軒先を指すと、女の子は大きくうなずいて、水色の傘をさそうとします。
「あ・・・」
彼女の悲しそうな声に、私はその傘を見ました。それは、風のせいか、骨がぽっきりと折れてしまっていました。
「うああ・・・」
少し大げさに、彼女はうなだれました。雨に濡れたうなじが、私の目をかすめていきました。一瞬、それが車のライトに照らされて。
「どうしよう・・・」
「あらら。しょうがないな・・・ ほら、行くよ」
傘をちょっと差し出して、彼女を促します。それに、女の子は一瞬とまどいました。ほんとうにわかっていないように、まあるい瞳で私を見詰めます。そのめがねにも、水滴が流れていました。
「ほら、ちゃんと入って」
「ええええっ!」
女の子が、急に後ずさりしたので、それを追って傘をさらに差し出します。雨が、私の首に降りかかりました。
「ちょ、ちょっと。ちゃんと入らなきゃ風邪引いちゃうよ? そういえば、もう風邪は治ったの?」
「う、あ、あの、治りました」
「でも、そんなに日が経ってないでしょ? ほら」
「うああ・・・」
私が彼女の水色の傘を取ると、彼女はようやく私の傘に入ってきました。黒いカバンの取手を、両手でしっかり握りしめて、うつむいて。
私の左側に、ちょこん、と収まった、セーラー服の女の子。息遣いまでも聞こえそうなほど緊張した表情が、車のヘッドライトに照らされて、信じられないほどきれいに映えて、流れていきました。


軒先で、女の子はハンカチを取り出して、服と髪に染み込んだ雨を拭き取ります。私と一回も目を合わせないけれど、降りしきる雨を眺める私を、絶対に、見ています。
その証拠に。
「ねえ」
「は、はいっ」
急に振り向いた私に驚いて、彼女は視線をそらしました。
「これからバイトなの?」
「は、はい。そうです」
「遅いよね。いつもこの時間なの?」
「いえ、あの、今日はちょっと面接で遅れてしまって・・・」
「先生と?」
「は、はい」
「大変だねぇ」
「そ、そんな・・・ あの、いつもいつもお仕事で・・・」
「今日は早く帰れたけどね」
「そ、そうですね」
そのまま黙りこみ、彼女はちょっとかがんで、スカートをハンカチで叩きます。車の水しぶきの音が、妙に大きく響きました。
「あ、あの・・・ 終わりました」
スカートのポケットにハンカチをしまって、女の子は立ち上がります。
まだ、めがねが濡れていました。
「まだじゃない。めがね」
「ひゃああ、じ、自分でできますっ」
私が手を近づけると、驚いてあわててハンカチを取り出す彼女に、何度目か分からないけれど、私は笑ってしまいました。


50メートル先に、ファミリーマートの看板が今日も光っています。
二人は、ひとつの傘に収まって、ゆっくりとそこへ向かいます。その間、女の子は一言も口を開くことなく、ただ私の横でうつむいて、いっしょに歩いていました。
並んで歩くと、私の方が頭ひとつ分は高くて、うつむいている彼女の顔はよく見えません。それでも、きっと彼女の顔はまっかになっている、そんな気がして。
時々、女の子の肩が私の腕に触れて、そのたびに彼女はちょっと身を離しました。そしてまた、触れ合って、また離れて。 ・・・まるで、揺れ動く一輪の花のように。
「・・・ちゃんと、こっちにおいで。濡れちゃうよ」
ほんの少しだけためらって、そして女の子は、まあるい息をひとつ吐くと、かすかにうなずきました。
それからずっと、彼女の肩は、私の腕に触れたままでした。


こんなに寒いのに、彼女の体温が触れ合っているところから伝わってくるような気がして。
私は彼女をふと見下ろしました。
前から来る車のヘッドライトが、また、うつむいている彼女の顔を照らします。
女の子は、もみじがさらさらと秋の風に流れるように、微笑んでいました。コスモスが朝露に触れて花開く時のように、やさしく微笑んでいました。


すぐに、時間は過ぎ去って。
ファミリーマートの店先で、女の子は改めてお辞儀をしました。
「ほんとうに、ありがとうございました」
「いえいえ、どういたしまして」
そこで、思い当たりました。
「ねえ、帰りはどうするの?」
「あ」
小さな口に手を当てて、女の子はちょっとだけ考えます。
そして、すぐさまかぶりを振りました。
「大丈夫です。お店にあると思うから」
「貸してあげようか?」
「い、いえ。そんな・・・ 悪いです」
「悪くないよ。どうせ家すぐ近くだし」
傘を差し出しますが、彼女はそれを受け取りません。
「大丈夫ですってば」
「また、明日にでも返してくれればいいよ」
「で、でも・・・」
私が傘をお店の壁に立てかけると、女の子は、ううう、と困ったように胸の前で右手を握ります。
「ね、明日、返してね?」
その言葉に、思い当たったように彼女の顔が輝きました。
雨なんかはじき飛ばしてしまいそうな、満開の笑顔。
明日・・・ また。
「はい! 明日、必ず返します!」
そして私は、お店の前で手を振る彼女に見送られて、雨の中を家に走っていったのでした。




第7回

〜私を知って〜
今日も、雨でした。最近雨ばかりのような気がします。
そして、雨の日に限って、早く帰れるのはどういうわけなのでしょうか。これではどこかに行く気も起きません。
しかたなく、とぼとぼと雨の中を歩いていたのですが。
いつも、駅から2分で見えてくる灯りに、元気をもらっているような気がするのです。ファミリーマートの、あの女の子に。
セミロングの黒い髪を後ろで二つに束ねてファミマの制服を着た、あの女の子に。


ファミマの店先、雑誌コーナーがガラス越しに見えます。そこで、手を伸ばして奥の方の雑誌を整理している、女の子。
私がそこで立ち止まると、すぐに彼女も気がつきました。流れ落ちていた髪をかきあげて、ひらひら、と手を振って。
まるで、暗い洞窟から陽の輝く草原へいきなり出たような、そんな笑顔が、私をいつも元気付けてくれて。
私がお店に入ると、たたたたっ、と小走りで近くまで寄ってきて。
「いらっしゃいませっ!」
そのお辞儀で、二つに結んだ髪の毛が、ぴょこん、とはねるのが、いつもおかしくて。
「・・・え? 何か、おかしいですか?」
くすくす笑う私を、不思議そうに、女の子がのぞき込んできました。
「ううん。いつもありがとう」
「え?」
ますます不思議そうに首をかしげる、女の子でした。


今日は、いつものジュースとヨーグルトに、電池も買って、空っぽのレジに向かいます。女の子は、それに気づくと、ぱたぱたと走って、レジに滑り込むようにして入りました。
「お、お待たせいたしましたっ」
「あはは。そんな急がなくてもいいのに」
「えへへっ」
女の子が、そこで、舌をほんのちょっとだけのぞかせます。いたずらっぽく私を見上げて、まるで「いいでしょ・・・?」と訊いているみたいでした。
いつものように煙草も追加してもらって、いつものように身体にやや力が入り気味なレジ打ちです。
それを、私はいつものように見ていました。


違和感を感じました。
「・・・えーと、ストロー入れますね」
いつもよりも、手つきが少し遅いのです。
「煙草とジュース、いっしょにしてもよろしいですか?」
煙草の箱が濡れてしまうから、なのでしょうが、いつもはそんなことは訊かないはずです。普段、一緒に入れてしまうことを、彼女は十分に知っているはずです。
「・・・おつり、437円になります」
それに、いつもよりも、よくしゃべって。
「いつも、お忙しいんですか?」
「ま、まあ、それなりに・・・」
「そうですか・・・ 大変ですね」
いつものようにずっとうつむいたままなのに、いつもよりも、ほほが少しだけ紅い、そんな気がして。


ビニール袋を受け取って、私は、ドアに向かわずに、そのまま彼女を見詰めました。
「・・・え? な、何か・・・?」
びくっ、として一歩身を引いた彼女の目が、一瞬だけ、私から逸れます。
そして、すぐに、うつむいてしまいました。
うつむくのは彼女の癖なのでしょうが、それでも、今日は、何かおかしいような気がするのです。
「・・・何か、言いたいことでもあるの?」
「え・・・? あ、あの・・・ いえ別に」
かぶりをふる女の子。ちょっと弱々しげに。
やっぱり、何かあるのかもしれません。
「そう? ・・・じゃ、また来ますね」
「あ・・・」
ほら、声が。
私は振り向くと、真正面から彼女を見据えました。
「なあに?」
「あ、あの・・・ い、いえ、何でもないです・・・」
何か言いたくて、言えなくて。そんな時に見せる、きゅっ、と引き締められた、小さい唇。
「言わなくちゃ、わからないよ?」
「・・・ううん。何でもないんです」
「ほんと?」
「・・・」


きっと時間はそんなにありません。多分、次のお客さんがレジに来てしまうのは、そんなに先のことではないはず。
私も、賭けることにしました。それは、きっと安易だったのかもしれない賭けでした。
「言わないんだったら、もう来ないよ」
「ええっ!」
ほんとうにびっくりして、女の子は大きく叫んでしまいました。お客さんがいぶかしげにこちらを見るのに気が付いて、ひえぇ、と小さく洩らして、彼女はめがねのずれを直しました。
「ほら、ちゃんと言って」
「あう・・・」
「それとも、もういいの?」
「ああっ・・・ そんなこと・・・」
いきなり、でした。
ほとんど泣きそうになって、女の子はぶんぶんと大きくかぶりを振りました。何度も何度も、二つに結ばれた髪の毛が激しく動くのも気にしないで、女の子は首を振り続けます。
気のせいか、瞳が少しだけ、ゆれているような。
ほっぺは、もう真っ赤になって、一生懸命、何かをこらえているように、唇は一文字に線を描いて。


私は、しまった、と思いました。
自分で言ったことなのに、自分であえてやったことなのに。
胸が、ひどく痛みます。
そんなに、ふるえないで。
そんなに、息を切らさないで。
私が、ひどい言い方をしたんだから。
それでも。
「・・・じゃ、言って」
言って。
今言わないと、私が保たないです。そんな、悲しそうな顔、しないで・・・


「うう・・・ 言います。言いますから」
そこで、女の子が私を必死にのぞき込んで、それで私の緊張は一気に解けました。
「言いますから・・・」
めがねの奥のひとみが、私の心を突き抜けます。
そんなにまっすぐなひとみの線があることを、私は今まで、知りませんでした。


「・・・ご、ごめん」
「・・・え?」
「わ、悪かった。ひどいこと言った。そんな、来ないなんて、そんなことないって」
「え、あ・・・ はあぁぁ」
最後は、女の子が思い切り深くため息をついて、二人の間の空気は、何とか元に戻りました。
「ふえぇぇ・・・」
「ほんとごめん。来ないなんて、もう二度と言わない」
「うう、だって、だって・・・」
「言わないから。 ・・・ね?」
彼女が、一回だけ、鼻をすすります。
でも、彼女は、そのまま、ゆれた瞳のまま、私を見ました。
「あ、あの」
「はい?」
「・・・今週の土曜日、あたしの誕生日なんです」


時が止まったのは、何かが変わる予感がしたから、かもしれません。
「・・・あ、ああ。そうだったんだ。それはおめでとう」
「はい!」
「よかったね」
「はい!」
元気たっぷりの、彼女の笑顔。
二人の時間はまたいつものように流れ始めます。
「あ、あの、別に何か、その・・・ あの、祝ってほしい、とか、そんなことじゃなくて」
誕生日、という言葉の持つ意味に気づいたのか、あたふたと、女の子が説明します。
今も、ほっぺは真っ赤です。でも、それは、さっきとは違う色でした。
「えーと。あの、その・・・ そのことを、知ってほしかったんです」
「え?」
彼女が、また、まっすぐに私を見詰めました。
「あなたに、そのことを知ってほしかったんです」


「・・・ま、そんなわけにもいかないでしょ」
「え?」
「何か、プレゼントを考えなくちゃね」
「えぇっ! あの、別にそんなこと・・・」
「だって、いつもお世話になっているから」
「そんなことないです!」
かぶりを振る女の子。なんだか今日はこんなのばっかりです。
「いつも、迎えてくれてありがとう」
黙ったまま、それでもまだ、首を振り続けています。
「せっかくの誕生日なんだしね」
まだ、振ります。
「・・・祝ってほしく・・・ ないの?」
ゆっくりと、女の子の動きが止まり。


そして、今度はほんの少しだけ、ううん、と首を振りました。
うつむいたまま。
こぼれ落ちるのを抑えられない、そんな、微笑みのまま。


「でもさ、土曜日もバイトなんじゃないの?」
「・・・」
それを聞いて、女の子は、ため息をついて、かくり、とうなずきました。
「どうしてもシフトが動かないんだって・・・」
「そ、そうなんだ・・・」
私も、この仕事の状況では土曜日に自由な時間が持てるかどうか、かなり怪しいものです。しかも、大学の同期の結婚祝で、飲み会も入っています。
「こっちも、実は厳しいんだよなぁ・・・」
「ううん。だから、いいんです」
にっこりと、彼女は笑いました。
「知ってもらえたから」


「あの・・・ すいませ−ん」
お客さんが、そこで声をかけてきました。
レジを済ませたいようです。
「あ、すいません。お待たせいたしましたっ」
彼女が応対を始めたのを見て、私は、ひとつ手を振って、ドアを出ました。
「ありがとうございました!」
彼女の声が、後ろから、私を包みました。


最後にもう一度、ドア越しに彼女の方に振り返ります。
女の子は、ちょうどその時お客さんの応対を終えたところのようでした。お客さんが、ドアから出てきます。
レジの向こうの彼女には、幸せいっぱいの笑顔が、あふれていました。





To Be Continued