人 刺 指

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 「すごく、久しぶりね」
 「もう、三年になるかな」
 「元気そうだね」
 「笹本の方が元気そうだ。最近俺は薬漬けで困ってるよ」
 「・・・薬?」
 「うん。食事の偏りがひどくてさ、ビタミン剤たくさん。それと夜起きてなきゃいけないから、カフェイン錠剤」
 「なんだ、びっくりした。ちゃんとしっかり食べなきゃ駄目よ?」
 「・・・善処しよう」


 私は医学について何も知らないから、彼女の状態に、もしも病名があるとしても、そんなことは分からない。
 中学一年生、入学式の後のホームルーム。まだ私が何も知らなくて、全てが新鮮で不安だった時、彼女・・・ 笹本みゆきは否が応にも目に入った。
 彼女は、その初めての自己紹介の時に、泣いた。
 私は彼女のすぐ斜め前だったからよく憶えている。先生に名前を呼ばれた時、いや、前のクラスメイトが話している時から、彼女の瞳は潤んでいた。下唇を噛みしめて、小さな手を握りしめて、彼女は震えていたと思う。
 笹本さん、と呼ばれて立ち上がったその瞬間、彼女は、泣いた。


 「怖くて、怖くて、緊張してたからそれがどんどん膨れ上がって・・・ 耐えられなかった」
 「・・・正直言うけど、あの時はびっくりした」
 「歩いていても、みんなが私を見てるの。全然知らない人が、ほらあいつだぞ、って囁いてるの。だから、不安で、 ・・・怖くて」
 「・・・ほら、紅茶冷めるぞ。せっかくのティージュのダージリンだ。おいしいよ」
 「うん」


 おどおどしている、という表現は当てはまらなかったように思う。もっと深い奥の方から迫り来る心揺が垣間見え、そしてそれに必死で耐えているような瞳が印象的だった。
 仲のよい幼馴染のような友達は2、3人いたと記憶している。それでも彼女は、授業で先生に指される度に、ほとんど毎回涙を流した。
 強い、とまでは言えないけれど、彼女の髪はかなりのウェーブがかかっている。あの頃は肩口よりももう少し長く伸ばしていた。
 彼女の瞳はほんとうにぱっちりしていて、睫も長く、きれいに孤を描いていた。ちょっと小振りの唇が紡ぎ出すことばはとても小さくて、時に聞き取れない。
 そして、泣き声も、こらえようとして、一生懸命押し殺そうとして、それが呻くようで・・・ 苦しかった。


 「あなたのね、下から覗き込んでくるような話し方が、最初は怖くて。でも、ゆっこやなるちゃんが・・・ って憶えてる? ゆっこは高校出てからOLやってて、なるちゃんは今公務員のT種狙ってるって。すごいね」
 「うん」
 「でね、ふたりがあなたと笑いながら喋ってるの見て、ほら、あの頃って男子は女の子とあまり喋らないじゃない? それと、男子はみんな、あたしのこと、 ・・・あいつ、とか、あの女、とか呼んでたでしょ? それをあなたは決してしなかった、って聞いて。あと、3人でいた時必ずあたしに話を振ってきてくれたじゃない・・・ だから、もしかしたら、って」
 「確か、日直の連絡用の日記を渡してくれたんだっけ?」
 「・・・あなたが肝心なことを憶えていてくれたのはこれで二度目だよ。いつだかあたしの誕生日を忘れたことがあったよね」
 「それは言わんでくれ・・・ あれは悪かった。 ・・・一回目って?」
 「これで三回目になるかな? ・・・ため息よ」


 私と彼女が一緒にいたのは一年間だけ。中学一年の終わりに、私は引っ越してしまったから。
 そして今、大学二年の終わり、春休みに私と彼女はこうして会っている。それよりも三年前、高校二年の時に私は彼女と会っていた。彼女が言う”一回目”というのはその時のことを言っているのだった。
 中学一年の三月、終業式の前日、引っ越す、ということをクラスのみんなに伝えたその日の放課後、私は彼女と初めて一緒に帰り道を歩いた。彼女は、ほとんど喋らないで私の話にただ相づちを打っていただけだったけれど、確かに、ほんの少しだけ微笑っていた。 そして、彼女の家に着いて、じゃあね、と言った時・・・


 「今だから言えるけど、あれはきつかったなぁ。あたし泣いたもん。あれから」
 「結局、終業式のお別れ会に来なかったよな」
 「・・・一晩中泣いて。ああ、あなたもほんとはあたしのことが迷惑だったんだなぇ、って思って。ずっと、負担だったんだなぁ、って思って。そしてまた怖くなって」
 「・・・」
 「そしてね、朝、鏡を見たの。 ・・・すごい、顔だった」


 高校二年の時に会った彼女は、ずっと私を見なかった。一緒にいた頃時々してくれていたように、私が覗き込む目に笑いかけてくれなかった。最初は久しぶりだから緊張しているのかと思ったが、私の話に返事はおろか相づちさえも打たないで、彼女はじっとテーブルを見詰めていた。
 彼女は中学一年の頃からすれば格段に落ち着いて見えた。あの頃の痛々しい動揺は消え去り、ぱっちりした大きな瞳は美しかった。
 けれども、彼女の内で何かが決定的に変わったのを私は感じ取った。そして同時に、その変貌の危ういバランス・・・ その大きな瞳がほんとうは何処を見ているのかということ、表情を殺した玲瓏過ぎる鋼色の顔が奥へ奥へと崩れていくことを微かに危惧した。
 美味しいはずのエディアールのフレーバー・リーフ・ティーはすっかり冷めた香りを漂わせている。私は片時も彼女から目を離さなかったが、きっと店員は、何事か、と気になっていたに違いなかった。
 お互い黙ったまま時間は過ぎていく。一時間ほどしてからだろうか、彼女がようやく口を開いた。
 か細い、声だった。


 『・・・あなた、私と喋っていると疲れる?』
 『え? そんなことないって』
 『・・・』
 『言わなくちゃ分からないよ。ちゃんと話して』
 『私、迷惑じゃない?』
 『俺が何かそんな風に見えるようなことした?』
 『・・・あたし、前より泣かなくなったの』
 『うん』
 『泣けなくなったの』
 『その原因が俺にあるわけね?』
 『・・・』
 『俺も知りたい。教えてくれない?』
 『泣いた後、鏡を見たの』
 『うん』
 『そしたら、怖くなって』
 『自分が?』
 『そう』
 『全然、怖くなんかないよ?』
 『ううん、怖いの』
 『・・・きっと、目が腫れちゃったんだよ』
 『すごい不細工で、怖かった。信じられなかった』
 『・・・鏡が?』
 『自分がこんな顔をしていることが。 ・・・ううん、自分がこんな顔を今まで見せてきたことが』
 『・・・』
 『それでね、思ったの』
 『何て?』
 『今まで他人が私をちらちら見ていた理由は、私がこんな不細工な顔をしているからだ、って。すごく醜いからだ、って。 ・・・だから、泣けなくなったの。せめて、一番醜い顔だけはやめようって。表情の中でも、一番見るに耐えないものはやめようって』
 『・・・他の誰がそう思おうと、俺は絶対そうは思わない』
 『・・・うそ』
 『え?』
 『うそよ』
 『嘘じゃない』
 『・・・』
 『そんな風に思ってたとしたら、あの頃あんないっぱい話なんてしないよ』
 『違うわ』
 『違わない』
 『違う』


 再び静寂が訪れる。話している間、彼女はずっと表情を固くしたままだった。決して、私を見ようとしなかった。
 そして、涙は一滴も落ちなかった。


 「・・・あたしね、あの時の沈黙にね、ああ、もうきっとあなたも、 ・・・何て言えばいいんだろ。愛想? 尽きちゃうわ、って、きっと、ほんとに迷惑だ、って、思ってた。もしあのまま終わってたら、きっと今ここでこうして会うことはなかったんだなぁ・・・ 違う違わない、で、あたしほんと自分の殻にこもってたから、あなたがあの時、訊いてくれて、答えてくれて、ほんとうに”よかった”、って・・・」


 エディアール・フレーバー・ティーの冷たい水面は彼女の顔を静かに映していた。
 けれども、きっと彼女の両手は、テーブルの下でぎゅっと握りしめられていたに違いなかった。肩に力が入っているのがはっきりと分かって、その時私は、彼女からはもうきっと口を開くことはないだろう、とほとんど確信に近く、そう思った。


 『・・・ひとつ、訊いていい?』
 『・・・』
 『ちゃんと、答えてほしいんだけど』
 『・・・』
 『鏡を見たのは、何時だったの?』


 私は、その時まで、彼女と話す時は問い詰めるような言い方をしてこなかったはずだ。けれどこの時、私は初めて、どうして、という言葉を遣った。


 『泣いた後鏡を見た、って言ったよね。何時泣いたの? どうして泣いたの?』
 『・・・』
 『答えられない?』
 『・・・』
 『じゃあ俺が答えようか? おまえはさっき、泣かなくなったのは俺のせいだっていうようなことを言った。 ・・・言ってはいないけど、そんなもんだった。だから、泣いたのは、多分、最後に一緒に帰った日の後だ』
 『・・・』
 『そして、泣いた原因は俺。きっと俺はさ、あの時何か、おまえから見て自分が迷惑だ、って思うようなことをしたんだ。おまえにとって、すごく辛いことをしてしまったんだ。 ・・・正直、よく憶えてない。けれど、俺には癖があって・・・ 俺はきっと、その時多分、ため息をついたんだ』


 涙が、落ちた。


 「あれは一回目じゃないよ。憶えてた訳じゃない」
 「ううん。あなたは憶えていてくれたの。 ・・・とても、嬉しかった。泣いたのは、四年ぶりになるかしら? あなたが引っ越してから、あたしは一回も泣かなかった」
 「そうか」
 「お母さんは、大人になったね、って誉めるの。それがすっごく辛くって。でも泣けなくて。苦しくて悔しくて。なんだかいっぱいごっちゃになっちゃって。それで、あなたに会いたくなったの。みんな誰もがね、 ・・・ゆっことなるちゃんだって、あたしが泣かなくなったのを、強くなったね、って言うの。強くなったんじゃないの。弱くなったから、弱くなっちゃったから、泣かなくなったの・・・ 分かる?」
 「ああ」
 「あなたがいなくなって、自分が怖くなって・・・ 人が、あたしの顔が醜いって、笑いながら噂するの。今までよりももっと人が怖くなって、自分のいる場所をできるだけ小さくしようとして、目に付かないようにしようとして・・・ だから、泣かなくなった」
「そうか。そう言えばあの時あなたは、目は変に硬く俺を拒否していたけど、肩はすごく震えていたような気がする・・・ すごく、矛盾してたかも」
 「そうかもしれない。人が怖いけど、独りになると自分が怖いの。どうしたらいいか、わからなくなっちゃって」
 「・・・今は、ちゃんと俺を見てるね」
 「え?」
 「目。 ・・・前は、俺を見ようとしなかった」
 「・・・多分あの時はいこじになってたんだと思う。この日と派、あたしを迷惑に思ってるんだ、って思ってたから」
 「しょうがない。ため息をついたのは他でもない俺だったんだから・・・ 痛かったか?」
 「・・・うん」
 「そうか」


 彼女は他人から身を守ることがちょっとだけ下手だった。涙、というあまり使い勝手のよくない方法で、それでも必死に身を守っていた。ただそれだけのことだった。


 「あたし、今は少しよくなったみたいなの。どう言えばいいのかな・・・ あの涙で、何かが一緒にこぼれていったみたい。こんな言い方しか出来ないけど、何かが、吹っ切れた感じなの」
 「そうか」
 「でね、今、あなたに訊きたいことが二つあるの・・・ いい?」
 「ああ」
 「吹っ切れた、って言ったでしょ」
 「うん」
 「少しは、気にしないようになってきたみたいなの。でも、こんなきれいな気分が、何だか不思議で・・・」
 「不思議で?」
 「・・・ほんとに、いいの?」
 「え?」
 「ほんとに、こんな気持ちでいいのかな、って、なんとなく思うの・・・」


 他人の目を気にして生きてきて、そしてずっと涙という暖かい膜でどうにか自分を保ってきた彼女には、涙という防御方法が消えかけている今、他に身を守る術がないのだろうか。もしそうであるとしたら、この毎日毎日が戦いの連続である日常を、彼女はこれからどうやって自分を守り抜いていくのだろうか。
 彼女の涙は、枯れることはないのだろうか。彼女にとって、言葉は偽りであり、微笑みは嘲笑なのだろうか。
 そんな人には、生は痛みの始まりであることを、私は・・・ 決して涙は流すことはないが、それを知っている。


 「・・・もう、冷めちゃったね。せっかくおいしい紅茶だったのに」
 「他のも飲んでみる?」


 彼女は冷たくなった紅茶を口に含む。小さな口が愛らしく、しかし今、それを飲み終わった後、痛切な言葉が零れ出る。
 彼女は、カップを置いた。


 「もう一つ」
 「・・・なに?」


 それはずっとずっと訊きたくて、でも訊けなかった問い。お互い離れてしまった今だからこそ、彼女が私という呪縛から逃れることが出来た今だからこそ、訊ける問い。
 そして、彼女がありったけの勇気を・・・ 私に日直の日誌を渡したあの時以上の勇気を振り絞って、発する問い。


 「・・・あたしを、可哀相だと思ってた?」




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