ほんとうに素直に、彼女は笑う。

 その笑顔が、私の記憶からどうしても消え去らない。

 

 

 

KANON

 

 

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1.       「起1」

 

 地方から出てきた人と待ち合わせるには、どうしても、スポットとして知られているところに行くしかない。人込みが嫌いな私は、それがとても嫌だった。

 土曜日の晴れた日の真昼、新宿アルタ前は最悪な場所だ。しかも6月も半ばを過ぎ、外気は必要以上の熱を帯びている。私の気分はどんどん苛立っていく。

 

 「久しぶり」

 あの時は心地よかった静かな声が、今は神経を逆撫でする。いや、彼女もようやっと仙台から出てこれたんだ、ここは我慢しなければいけない。

 「はいどうも」

 久しぶりにしてはずいぶんと間抜けな挨拶をした私の前に、ふと、人の間から湧き出たようにして、休日なのにオフィスカジュアル(記憶では、クリス・マディソンかもしれなかった)を着た女性が現れる。

 「やっぱ暑いね」

 「そうだな」

 答える私はもはや汗が滴り落ちるほどだ。彼女の言が皮肉に聞こえて、私はちょっと眉を顰めた。

 「ねえ、買い物していい?」

 仙台から出てきた理由のひとつにそれがあることを私は事前に聞いていた。しかし、そもそも私は女性の買い物という行為を害悪としか思っていない。しかも暑い。そして、人込みの中へ行かなければならないことは自明の理である。

 「・・・どうしたの?」

 気分がよくなりようもなかった。

 

 「ねえ、この色はどう思う?」

 私の機嫌を知ってか知らずか、彼女は夏服を合わせ、にっこりと笑う。彼女が今着ているような地味な服ではなく、まるで夜の蝶しか着ないだろうキャミソばかりだ。

 「・・・もう、今年はキャミソ流行らないだろ」

 「そうかな」

 そう言いながら彼女は次のキャミソを手に取る。買い物中は人の話を聞かない。女性の買い物の特徴である。

 しかし、より問題なのは彼女の年齢だろう。彼女が勤めている仙台のスナックでは、もう29と聞いた。

 「もうやめとけよそんな服はさぁ・・・」

と口に出してしまったのは、もはや機嫌が悪かったからの一言に尽きるだろう。

 

 彼女の機嫌を直すために、樹庵のフルーツとシャネルの口紅(シャネルとはいえ口紅レベルならば高くても数千円で買える)、そしてかなりの時間を必要とした。

 「・・・ん〜ん、満足。じゃあ、今度はあなたさんの行きたい場所に行こうよ」

 彼女は大きく伸びをして、やはりにっこり笑いかける。両手には本日の彼女の戦果が数袋ぶら下がっている。小さいシャネルの袋もくるくる揺れた。

 その後1時間以上、彼女は紀伊国屋さくらやパソコン関連コーナーとTSUTAYAのHIPHOPコーナーを引きずりまわされることとなる。

 

 ようやく暑い陽も傾きかけてきた夕刻、中村屋のカレーで空腹を落ち着かせて、彼女は、ほっ、と丸いため息をついた。

「ありがとう。東京は久しぶりだから、助かっちゃったよ。しかし、ほんとに人が多いところだねえ」

 彼女は私をまっすぐ見ながら、にっこりと笑った。

 

 ほんとうに素直に、彼女は笑う。

 その笑顔が、私の記憶からどうしても消え去らない。

 

 

2.       「起2」

 

 なぜ日曜日の午後4時に私は出張しなければならないのか。仙台駅に降り立った私はどうしても納得がいかなかった。しかも、6月上旬の仙台は暑い。そんな中、馬鹿正直にスーツを着ている私は何をこれからしようというのか。

 遊びに行こうにも、日曜日では歓楽街は半分は閉まっているだろう。しかも、クライアントがいる。

 到着していきなりだが、機嫌がよくなりようがなかった。

 

 クライアントとの食事も済ませ、もはややることがなくなった午後9時頃。巨人が大差で勝っており、裏番組も面白くない。仙台国際ホテルはかなりいいと聞いたが、何の事はない、退屈なのは他のホテルと同じだった。

 ようやく、私は、今まで何度もためらいつつあきらめてきた電話番号を見る。この前の仙台出張で立ち寄った場末のスナックにいた彼女の名前が液晶に光る。「史江」。

 一瞬どこかで水滴が落ち、逡巡が私を掠めた。けれども、今度は、通話ボタンを押すことが出来た。

 

 「久しぶり・・・ 国際ホテルって結構狭いのねぇ」

 史江はベッドの脇にカバンを置き、セミロングの栗色の髪を掻き揚げる。今日は店が休みのようで、さっぱりとした薄青のキャミソールだ。

 「出張があったんだねぇ。よかったよかった」

 約束ってしてみるものね、と続けて、彼女はにっこり笑った。

 冷蔵庫のお茶を勝手に取って、口をつける。動作の一つ一つが、まるで自宅にいるかのように自然だった。

 

 コンビニで買ってきたおやつを食べながら、当り障りのない話をする。しかし、なぜか、女性は余りに血液型を気にしすぎてはいないか。たった4種類で性格が分けられるのであれば、人間こんなに苦労はしないと思うのだが。

 「・・・あ〜あ、疲れたぁ」

 そう呟いて、史江はベッドに倒れこんだ。結局巨人は大勝し、私の機嫌は悪くなっていたのだが、彼女はそれに気付いた風もなく無邪気だった。いや、29の女に無邪気もあるまい。きっと、今思うと無邪気に振舞っているだけだったのだ。

 ごろり、とベッドでこちらがわに一回転する。先程からベッドに腰掛けている私のすぐ傍に、彼女の顔がきた。

 「ねえ、彼女いるの?」

 史江は不意を衝いたつもりだったのだろうか、それとも自ら自分の言葉に不意を衝かれてしまったのか、向こう側に、ごろん、と顔を布団に埋める直前によぎった彼女の表情。

 「・・・どっちがいい?」

 私の答は、彼女のびっくりが伝染してしまったかのように拙劣だった。

 「わたしが訊いてるのよ?」

 「それに答えたんだけど?」

 「・・・もう! 答になってないよ」

 言いながらさらに一回転、向こう側に転がる。丈のそんなに長くないキャミソールが、まるで計ったように微妙なずれ方でめくれた。

 史江は顔をまっすぐこちらに向けた。にっこり笑っていた。

 「じゃあ、いないほうがいいな」

 

 それから、お風呂を借りるね、と言ったその時も、初めてのキスをしたその時も、彼女の中に私が入って一呼吸置いたその時も、終わってタバコを二人してくゆらしているその時も、彼女はその時々ににっこりと笑った。

 

 ほんとうに素直に、彼女は笑う。

 その笑顔が、私の記憶からどうしても消え去らない。

 

 

3.       「起3」

 

 初めての出張は、仙台だった。5月も半ばを過ぎた頃。

 今日は人生の勉強をさせてあげよう、とクライアントの方がおっしゃった。クラブもいいが、やはり大人はスナックに行かなければ、だそうだ。

 国分町は歌舞伎町よりも呼び込みが多い。歌舞伎町はお上の規制が厳しいので、彼らもある一定の時刻を過ぎなければ呼び込みのため声を出すことも出来ないが、仙台の歌舞伎町こと国分町は、夕刻になると兄さん姐さんがずらりと並ぶ。

 その中を、クライアントの方(仮に「Sさん」と呼ぼう。)と突っ切っていく。Sさんも仙台は初めてだそうで、店を知るはずもない。

 「・・・じゃあ、あそこはどうですか?」

 この台詞は、Sさんがたまたま通りかかった兄さんに、いいスナックはないかね、と聞いたその答だった。

 

 ソファが3つにカウンター席。2,3人のサラリーマンの客がソファに座っていたので、Sさんと私はカウンター席に腰掛ける。

 「いらっしゃい。初めてですね」

 ママと思われる女性がカウンターにいそいそと入っていく。

 「仕事上がりですか?」

 「そうそう。わざわざ出張までしてなんだけど」

 「あら、ご出張ですか? どこから?」

 「東京です」

 「あらあらご苦労様。はい、どうぞ」

 差し出されたお絞りを、軽く会釈して受け取る。ここまで私は無言で通している(父親ほどの年のクライアントを前にして何をしゃべれようか)。

 「こちらは?」

 「同じ仕事で来てもらってるんですよ」

 「そうなんですか・・・ あの、失礼ですが、お仕事は何を・・・」

 「超機密事業ですよ」

 間髪容れずSさんが答える。確かに今回の仕事の内容はそうかもしれないが。

 「いらっしゃいませ〜。お疲れ様でした〜」

 ママの横に、店の中で一番若そうな女性が現れた。セミロングの栗色の髪に、色調を抑えたオフィスカジュアル。すうっ、と通ったような顔立ちとその動き。少し大きめの瞳が、愛嬌を薫らせる。

 「史江と言います。よろしくおねがいします」

 彼女はそう言って、にっこり笑った。

 

 スナックではカラオケを歌わなければいけないらしい。

 無論、私も歌うのは嫌いではないし、カラオケボックスにも行く。ただここで問題なのは、Sさんがわかるような持ち歌がない、ということだ。スナックで振り付きのグレイなどを歌ったら、クライアントを失いかねない(私のクライアントではないのでまあいいのだが)。

「こういう場所で同じ人が歌うのは3回が限界なんですよ。それ以上になると他のお客さんが飽きちゃうから」

先程からばりばりと歌を入れているSさんが笑う。

 始めはどうにか固辞していたが、とうとうどうにもならなくなってきた。

 「ねえ、歌ってよぉ」

 史江がしきりに迫る。

 「じゃあ私が歌いますから、それまでに決めておいてくださいね」

 Sさんはそう言い置くと、曲を入れる。

 「あ、これ知ってます」

 史江が言うまでもなく、Sさんは彼女にマイクを手渡した。デュエットの曲らしい。

 それから二人は、お約束のように抱き合って、熱唱し始めた。

 

 結局適当に選曲し、無難にカラオケをこなしていくしかない私をよそに、Sさんと史江は調子に乗ってきたようだった。クライアントが楽しければいいか、と、私は仕方なくママとちぃママを相手にとりとめのない話をする。二人ともにぎやかで、特にちぃママは20代後半に見えるにもかかわらず子供が小学校6年だと言う。いやあまいっちゃうやね、と、彼女はかなり酩酊した後に、誰彼なく語りかけていた。

 と、視線を感じた。一生に脈打つ私の心臓の鼓動が一回少なくなるような、何かが通り過ぎたような視線だった。

 そちらへ目を遣ると、史江がSさんに腰を抱かれながら私を見ていた。

 私と目が合う瞬間、確かに彼女は少しだけ唇をかみしめていたはずだ。何かを望む時の、何ものよりも強い、まっすぐした視線。

 私が目を合わせると、彼女は私の目をまっすぐに見返して、そしてにっこりと笑った。

 「ねぇ、いっしょに歌いましょう?」

 

 ほんとうに素直に、彼女は笑う。

 その笑顔が、私の記憶からどうしても消え去らない。

 

 

4.       「結」

 

 全ての「起」には必ず「結」がある。そしてそれは、決してそれぞれに対する終局ではありえない。まるで、カノン・・・ 追走曲ともいう作曲技法において、全ての旋律は最後に必ずいっしょになるように。

 今、私は、私の大好きなクラシック、「パッヘルベルのカノン」を聴く。

 

 エンドレスに繰り返されるカノン。一曲を集中的に聴く癖のある私は、もうこの曲を千回は聴いたであろうか。

 と、私のPHSが小刻みに震えた(私は、着信音は鳴らさない。その理由はいずれ語ることがあるかもしれない)。

 見憶えのある、名前。

 

 「・・・はい」

 「久し振り、史江です。 ・・・元気でした?」

 「何とか。史江さんこそ、元気でやってます? お店は忙しい?」

 「ええ、おかげさまで」

 「・・・」

 「・・・」

 

一瞬の沈黙に、これから後の史江の言葉が全て予測できるような気がした。

それほどに、気まずい沈黙だった。

 そして、そんな電話口での沈黙が、私は大嫌いだった。

 

 「あの・・・」

 「何か?」

 「・・・」

 思わず声色に変化が出てしまった。だけれども、私には、何か、はもう分かっていた。早く電話を終えてほしかった。

 そう思ってしまったこと、そう態度に出てしまったこと、それを誰に責められようが、私は何回でもそうするだろう。

 電話での沈黙は、その時間が永遠に解けることのない呪縛だからだった。

 

 「・・・あのね、私、結婚することになりました」

 「そうですか。おめでとう」

 「・・・」

 「・・・」

 「あ、あのね、彼はね・・・」

 それから史江はすごく早口になって彼女の婚約者のことを話し始めた。仙台では一流の商社に勤める31歳のサラリーマンで、合コンで知り合ったこと。趣味はテニスで、土日はジムに通っていること。年収は500万円くらいで、長男だが両親は他界してしまっていること。一軒家を持っていること。目が悪いがメガネではなくコンタクトレンズであること。やさしくて背が高くて、スーツが似合う人であること。婚約指輪もティファニーで買ってもらったこと。などなど。

 

 私が聞いていないことは史江も分かっていた。

 

 かっこいいし、ほら私の歳も歳だし、やさしくしてくれるし、お家持ってるから貯金できるし、そもそももう結婚式の費用を抜いてもまだ300万円くらい貯金あるし、計画的だし、結構出世しそうだし。

 ・・・大切にしてくれるって言ってくれたし。

 

 本当の理由を言っていないなんて誰でも分かるような。

 心を閉ざした私にですら、彼女の口調は痛かった。最後の拠り所となるはずの、一番最後の言葉、それすら彼女が結婚した理由にならない。それが二人に分かっていたから。

 

 「あーあ、ほんと、場末のスナックに勤めててこんないい人に会えるなんて、奇跡って起こるもんなのね」

 それからまた婚約者の話になる。それをずっと、ただ私は音として聞いていた。

 

 延々と繰り返し、同じ話は続く。

 まるで、今私の後ろでかかっている「パッヘルベルのカノン」のように。

 

 受話器の向こうで、ピー、という音が聞こえた。

 「あ、何だか携帯の電池が切れそうかも。 ・・・ごめんね、こんな長くなって」

 「いやいや」

 投げやりに答える。その気配は絶対に史江に伝わっている。

 彼女は、ため息をついた。

 

 「・・・じゃあ、また、仙台に来たら・・・ 電話でもしてね」

 

 彼女は最後まで本当のことを言わないつもりだ。

 そのことに、その時私は無性に腹が立った。

 ・・・嗜虐的になるほどに。

 

 「まあ、なんにしろおめでとう」

 「あ、ありがとう」

 「・・・でもね、知ってます? 奇跡は、起きないから奇跡って言うんですよ」

 

 時間にしては絶対に短かったはずだ。電池が切れかかった携帯がそんなに保つわけがないから。

 けれども、その沈黙は永久に彼女を縛り付ける呪縛だった。

 後ろでは、カノンが鳴り響く。

 

 「ご結婚なさったのであれば、もう二度と電話はしません。だんなさんが誤解したら困るでしょ?」

 

 彼女がすすり泣く声が聞こえた。

 それに追い討ちをかけるように、いや、「ように」ではなく、まさに追い討ちをかけるために、私は続ける。

 「本当のことはあなたしか知りませんからいいんですけどね。ていうか、私は知りたくもないですから」

 そうしないと、私まで呪縛にかけられてしまう。

 

 「パッヘルベルのカノン」のコード進行は、C−G−Am−Em−F−C−F−G。この8小節が、延々と繰り返される。それはまるで、ぐるぐると巻きつく鎖のように。

 そういえば、日本のポップスは、このコードから抜け出せていない。かくも強い呪縛をもたらす「パッヘルベルのカノン」は、大多数の人の心を捉えて放さないのだった。

 

 「・・・お父さんが、病気なの」

 「え?」

 「電話、かけないって言ってくれて、ありがとう。それじゃあ、 ・・・」

 

 唐突に、電話は切れた。

 

 しばし呆然としていたが、私もPHSの電源を切る。「通話終了」の活字がいやらしいほどに角張っていた。

 

 

5.       「終奏」

 

 今でも、私は確信している。

 涙交じりだった。

 けれども、最後の「ありがとう」を言いながら、ほんとうに素直に、彼女は笑った。

 

 

D.C.