なにかしちゃったときのあっていう声がどうしてもきれいに出ないからびっくりすることからできるだけ離れていたいのです。止まれの看板が何個も並んでるようなそういうさよならの日が一日くらいあってもよくて、希望を込めてつけた名前なんて時が過ぎたらこわれてしまうのに、遠くの柱の影にはかならずだれかがいることだけ知っていればよかったのです。もうなんにも気づきたくなくなってしまったひとはどうかだめになってもいいから毎日が平穏でありますようにと祈って、まるのない文章はそこで終わらないことでなにかから逃げるためのものでした。
ひとは消失点があると見つめてしまうものだから、なにかしてみたいって思ったときは底から見る水族館の大水槽のガラスがきしむ音をずっと聞いています。帰ってきたことをほんとうによろこんでくれるひとなんていないってわかってるなら、閉店してだれもいなくなったデパートの二階の吹き抜けでそっと録音のボタンを押しましょう。それはきっと病室の電灯のようないのちのまんなかよりもずっと遠くにあって、ひとの影がいつの間にか近くにあるような、等間隔でともる電灯のひとつがまたたくような、だれもいない部屋に置かれた三脚のような、そんなふうに響くはず。
やっと夢から覚めて魚になった気持ちから戻ってきたのにまだ上の方にいるような感じで、雲と空の苔を食べたらうろこが少しずつぺりぺりってはがれていくのを止められなくて泣きじゃくって、胸が高鳴るとこんなに苦しいって知らなかったけど許してもらえなかったからただうずくまって平らにした土地の上に家を並べたことは間違っていました。その虹にはなんの意味もなくて、家の窓が外の景色を切り取るたびに空から血がにじむのを知らんぷりしてひとは自分の居場所を作っていきます。きれいすぎて窓と区別のつかなくなったモニタからも血が滴ってくるのを待っているのです。