神さまはうつくしいから、ご覧になるもののうつくしさを御身のものとすることでさらにうつくしくなります。神さまはあわれなひとを慈しみご覧になりそのうつくしさをすべて御身のものとされたので、ひとはみんな醜くなりました。けれど神さまがご覧になっていないもののひとつである桜はまだうつくしく、ひとはこの季節に桜を見上げては自らの醜さを忘れそのうつくしさを愛でることができます。どうかこれからもとこしえに、ひとは神さまのご加護のもとに醜くあり、そして桜は神さまに気づかれずうつくしくありますように。
ひとは毎年同じように咲いて同じように散る花のすぐそばで桜を見上げる自分のことを小さく、あるいは大きく、ときに色を変えて、桜という鏡に映してきました。そうして散りゆく花びらのすぐそばにあるものを見たくて、たぶん余計なことだとわかっていながらひとは昔からことばを尽くして桜を歌ってきました。今はつなぎ合わせた歌は0と1のプログラムになってことばの横にある部分の面積をすぐに計算できるから、自分がただ自分であってなにも特別なものではないんだってわかってしまいます。もうしばらくしたらこの世界の余計な部分は切り捨てられて、桜もただ散るだけのものとなっていくのです。
雨の中の桜は少しくすんで、見に来るひとが少ないからか、ちょっとリラックスしていつもの桜ですっていう張り切り感がなくてかわいいです。夜の中の桜はライトアップの具合でいろんな雰囲気が出て、化粧のりがいいというか、元がいいとなにを着ても似合うよねって感じでうらやましいです。ビルの前に桜が植えられてても違和感はないのに、ビルの中に桜があるとほんとうに窮屈そうでなんとかしてあげてって思います。桜が散った後に心の中に残る桜は来年まで咲かせることはありません。咲いたら散ってしまうから。