見るもの

みなさんいろいろなものを諦めてきたことと存じます。てのひらからこぼれていく色とりどりのかけらをただ見つめることしかできなくて、あんなにキラキラしてるのにどうやっても取り戻せなくて、せわしない日々に追われて悲しむ時間もなくて、もういいやとなってしまったわたしとあなたは、きっと毎年春に桜のニュースを聞くたびに「ああ、最近桜見てないな」とかそんな感じのことをつぶやくような人生を送っているんだと思います。通勤、通学、買い物や散歩の途中、桜が目に入っているのに気づいていますか。それで「今年も桜を見た」と言い張りますか(来年の春にこの文章を思い出せますか)。そんなわたしもゴミを出して散歩でも行こうと玄関を出たときに空気が重く下がって雨のにおいがしたら傘を持つわけで、いったいなにをやっているんだろうと思うのです。

冬に向けて弱くなっていく日の光、光合成で得られるエネルギーが葉っぱの維持コストに見合わなくなるから葉っぱは秋に紅くなって落ちていくんだって。生きていて楽しいと思うエネルギーがいのちの維持コストに見合わなくなったらわたしたちはどうなるんだろう。真っ赤に染まって落ちていったその先をまだ誰も見たことがないなら、それを見てみたいと思っても不思議じゃないことでしょう。そう言ってきっとたくさんの人がそれを見に行ったのでしょうけど、まだ誰からもその答えを聞いたことがないのです。もう12月も半ば、過ぎ去った小さい秋を今年誰か見つけたのか、まだ誰も知らないと思います。