ものさし

だれも永遠のいのちを持ったひとがいないのにそれは永久の苦しみとかひとは死ぬからこそうつくしいとか知ったふうな感じでいわれるのはなぜなんでしょうか。もしかしたらだれかこっそりと永遠を生きているひとがいて、秘密をひとりじめにするために永遠なんてよくないよいらないよって言いふらしているんでしょうか。それとも永遠を生きているひとはいないけど、神さまの御前にて永遠に救われることはかならずしも幸せを意味しないと思ってるだれかがいるんでしょうか。そういうひとは靴下の長さが左右で違ったらどうするんでしょうか。

もしわたしがそこに座っていたならそれはわたしでありたいわたしであるはずで、たいして長くもない道のりしか歩いてきてないのに座ってしまうには早すぎるんじゃないってちょっと嫌みっぽくいうのがいちばん効いてしまってやる気をなくしてしまうから、もうすこしがんばれるように声をかけてあげたいと思っています。でも歩いていると思ってたら座ってるだけだったならわたしはわたしであり続けるのにものさしが必要になっているかもしれないから、なんか適当に風とか雲を渡してあげればきっと座っているのもわたしだってなるんじゃないかって思ってます。

ほんの少しの長さを測るだけでもひとはなにかの道具を必要とするから永遠を測るためのものなんてなにも持ち合わせていません。たくさんの想像はきっとぜんぶ間違っていて、いろんなことばや絵や音を使ってあらわせたことはきっとただの一度もなく、だから歩くために老いなければならないひとというのはきっと根本的に死んでいて、なのに100年もしないうちに歩くのをやめてしまうのです。神さまが神さまである理由はもしかしたらこんな感じのひとをずっとご覧になり続けてもまだ飽きておられないところにあるのかもしれません。