| 優しい世代? 何ですかねそれは。記事タイトルを見た瞬間そう思った。この世に生を受けて30年と少し、今まで生きてきた中で優しい人はいたが、優しさがその全体に共通し、共有されている世代というものを寡聞にして見たことがない。毎日新聞の磯崎女史、いったいどのような論理展開を見せてくれるのか。 『「僕らは貧乏だけど貧困じゃない」「お金がなくても人間らしく暮らせればいいじゃないか」 東京でこの夏あったトークライブ。バブル崩壊後に成人した「ロストジェネレーション(失われた世代)」の20〜30代が激論を交わしていた。パネリストのフリーターや自営業、NPO主宰者に共通していたのは「人をけ落としてまで生きたくない」という労働観だった』 単純に「人をけ落としてまで生きたくない」という思いが「優しさ」だというならば、優しい人とは世捨て人と死んだ人に限定されるだろう。この先の内容にどうやって突っ込もうかしら、という観点からすればなかなか興味深い記事の導入であるが、悲しいかな、私がここで改めて言うまでもなく、本サイトの記事を読まれる方々は、「人をけ落としてまで生きたくない」という思いの本音は、「自分が他人を傷つけたことにより自分に返ってくる事象を受けたくない」だったり「自分が物事の渦中にいたくない」だったり「自分は厄介ごとに巻き込まれたくない」だったり、詰まるところどこまで行っても自分中心のネガティブな思考がその基盤にある場合が往々にして多いことは、既に了解済みかと思われる。期せずして、なのか、それとも筆者が敢えて「ここ突っ込みどころね」と指定しているのか、この記事においても、上記引用部分の直後に 『リサイクルショップの経営者は「社長だけ高い給料もらうなんて、オレには無理。一緒に働く人からどう見られるか考えたら、耐えられないもの」と言った』 と続き、「人をけ落としてまで生きたくない」という思考が、要は自らに対する影響を慮るが故に生まれる、ある側面から見れば「自分本位」であり「回避」的な思考であることを暴露している。
筆者は、バブル崩壊後に成人した20代〜30代の世代はこのような「自分本位」な「回避的」思考を普遍的に備えていると言うのであろうか。少なくともこのコメントをこうして書いている私は、この世代に形式的に当てはまるにもかかわらず、こういう思考は露ほどもないのである。仕事をしたら貰うものは貰いたいし、過剰に貰う場合は別として、それ相応に貰うならば同僚より多くともそれに引け目は感じない。お金に執着しているわけではないと思いたいが、少なくともお金はないよりある方がマシだと思うし、体重は気になるけれど、できたら美味しいものが食べたい。そして何より、もっともっとたくさん同人CDと電波ソングCDが欲しい。だから私は、それらに費やすお金を得るため、日夜粉骨砕身、吐こうが視界が白くなろうが点滴を打とうが、より楽しい同人電波CDライフのために働くのである。そう、この夏のコミケでも私は… いや、話がずれた。私の労働の動機などどうでもよいことであった。問題は、このような「自分本位」な「回避的」思考を以て「優しさ」というのか、という点であるが、筆者は、続く文章で直ちに、 『企業や組織を嫌い我が道を行くタイプは昔からいた。でも何かが違う。その心象風景にあてはまる言葉を探せば、少し違和感を覚えつつも「優しさ」になるだろうか』 と言い切るのである。私ごときが大変口はばったくも申し上げることができるならば、少し違和感を覚えたのなら、物書きとしてその違和感を解明してから書いてもらえないだろうか。仮にも全国紙の毎日新聞の記者、プロの物書きである筆者が言葉に少し違和感を覚えているならば、その文章の読み手、ずぶの素人である読者においては、もはやこのあたりで少しどころではない違和感を覚えているだろうことに、少しどころではなく配慮してもらえないだろうか。しかも、この後「その違和感とは何であろうか」などと話題を振って違和感を解明することもなく、 『ニートや引きこもり、うつ病。利益優先の経済活動に適応できない若者は増えている。親たち団塊世代のように組織の歯車となり、マイホームや老後のために働く生き方には魅力を感じない。でも意欲はある。自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない。そんな仕事を追い求める』 などと、いきなりニートや引きこもり、うつ病の話を持ち出して、いかにも弱者の持つ優しさ然とした話題に振り替えるのである。こういう唐突な転回は本当に困る。仕方がないので、冒頭でトークライブのパネリストという立場に立とうと決意してそのとおりに行動するだけの気力があるフリーターや自営業、NPO主宰者やリサイクルショップの経営者と、一般的なニートや引きこもりやうつ病患者とを一緒くたにして「利益優先の経済活動に適応できない若者」と括っている点については、まあ百歩譲って文字数制限で話を進めなければならない必要性に基づくものと解釈しよう。また、組織の歯車になることやらマイホームや老後のために働くことやらはここに来て初見で、「人をけ落としてまで生きたくない」という冒頭に語られた思考との間のつながりがいささか不明であるところも、この記事全体を見て善解し、「団塊世代が行ってきたような具体的かつ物質的な利益のために働くことは昨今の若者たちには合わない。彼らは、自らと向き合えて他者とも支え合えるような仕事に充実を覚えるのである」とでもいうことにしよう。それでいいということにしてくれ。正直私はこのあたりで萎えてきている。なぜなら、 『「甘い」と責めるのは簡単だが、もはやその優しさは社会のシステムに完全に組み込まれ、たくさんの人が安価な労働力の恩恵を受けている』 とあり、つまり既にこの種の「自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない仕事」に就く「優しさ」は、筆者に言わせればこの社会において組み込まれたくさんの人に恩恵を与える程度に存在し、対して自分と向き合ったり他者と支え合って充実を感じるような状況とは無縁の事務書類を作成する仕事をして同僚たちと昇進を争う状況に置かれている私はそんな「優しさ」とは全く無縁、しかも同人電波CDという物質的な利益のために働いているので旧態依然な団塊世代と同類とされ、バブル崩壊後に成人した20代〜30代の世代からハブられて蚊帳の外、もちろん私も競争がないという天国のような職場があれば喜んで馳せ参じ自らの充実に力を入れたかったのであり、どうやら私はそもそも就職口を間違ったのではないかと、今こうしてコメントを書きながら頭を抱えているのであるから。そんな馬鹿な。結構がんばって探したつもりだったのに。でも実際に一度転職しているし、やはり最初から選択が間違っていたのだろうか。仕事をしていて吐いたり視界が白くなったり点滴を打たなければならなくなったりするのは「優しさ」が欠けているからなのだろうか。頭痛に抗するために飲んでいるバファリンの半分から摂取する「優しさ」だけでは補給が足りないのであろうか。そうかそういえばもうそのバファリンの宣伝文句は使われていないんだった。もう私の人生は取り返しがつかないのだろうか。あああ。
それではいったい私はどんな職場に就職すべきであったのか、筆者はさすが物書きのプロ、きちんと例を挙げてくれている。 『例えば介護の現場。働き手の4割が20代だ』 寡聞にして介護が「自分に向き合い、仲間と支え合い、無意味な競争にさらされない仕事」であるとは知らなかった。少なくとも、高齢化社会において介護事業は現在急拡大中、各社様々に手を変え品を変え高齢者とその家族たちの目を引こうと必死なはず。記憶に新しいグッドウィル・グループのコムスンの不正受給のニュースは介護事業の暗部を図らずも暴き出した。しかも、ワタミがコムスンの事業を承継するというところで訪問介護だけは「自治体からの支給が少な過ぎて収支が合わない」という理由で対象から外れるという状況は、行政に対する介護報酬の請求に上限がある中、企業である以上利益を出し続けなければ介護事業を続けられないという介護事業民営化制度の矛盾も暴き出した。介護事業者は、このような状況で利益を出すためにはコストカットするしかなく、コストカットの対象としては従業員の給与の削減が手っ取り早いわけで、結局、介護の現場は競争がないのではなく、行政の限られた支給からより企業が利益を出せるようにそこで働く従業員を極端な低賃金に抑えたのであるから、むしろ、介護の現場の極端な低賃金こそが、上で挙げられた「利益優先の経済活動」の結果であり、介護事業民営化制度に内在する矛盾に起因する「無意味な競争にさらされ」た結果と言えるように思えて仕方がない。
もちろん、より視点を近づけて見れば、構造的かつ全体的に従業員は低賃金に抑えられているので従業員間の競争が起こりにくい、という点を捉えて「無意味な競争にさらされない」と言うことも、やや無理筋ではあるができるかもしれない。しかし、仮にそのように言うことができたとしても、 『重労働低賃金に耐える青年たちから「お年寄りの笑顔を見るとつらいことも忘れるんです」と聞くたびに複雑な気持ちになる』 という下りにある、苛酷な環境で敢えて働く若者が抱く「お年寄りの笑顔を見るとつらいことも忘れるんです」という感情は、冒頭主題である「人をけ落としてまで生きたくない」という思考とは共通していないように思える。介護の現場の若者の思考は、他人が嬉しいと自分も嬉しいという「自己実現」的思考であり、または、他人が喜ぶことをしてあげたいという「利他」的思考であるのに対し、冒頭主題の思考は、自分が影響を被るのを避けたいという「自分本位」な「回避」的思考であるからだ。それを一緒くたに「優しさ」でまとめるのは、いささか無理があるのではないだろうか。
むしろ、冒頭主題で挙げられ、昨今の若者に普遍的に見られると筆者が言う「優しさ」が、子供のころから身に付けるべき社会性が欠如し、人格的にいわゆる大人に成り切れていないが故にトラブルや競争的な物事を回避したがる傾向から生じる、いわゆる回避的、自己愛的なものであるとすれば、この文章は筋が通ってくるように思える。そして、そのような回避的自己愛的性向が、もちろん人それぞれの事情と例外はあるものの、ニートや引きこもりに見られるという論理展開の方が文章として筋が通るのではないだろうか。回避的、自己愛的性向を無理に「優しさ」と定義付けてしまうからこうなるのだ。そして最後の段を何か別の事例に変えて、お決まりの「政府が悪い」とでも締めておけば、磯崎女史は「違和感」を感じることなく文章を書くことができ、介護の現場で働く「優しい」若者たちを見て複雑な思いをすることもなく、翻って私は気兼ねなく同人電波CDを買い漁ることができ、バブル崩壊後に成人した20代〜30代の世代にめでたく加わることができ、就職口も間違っていなかったと安心できるのである。というわけで、磯崎女史におかれては、後生なので記事を差し替えて私を安心させてもらいたく、こうして朝っぱらまで長々と更新をした次第である。
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